薔薇の花言葉 [サファイア・ラグーン2作目]

 それから二時間ほどが経ち、三人がテーブルに揃った頃、アーラ様も現れて魔法の授業が始まった。
 ティアにキスのお礼を貰った僕は上機嫌で此処に戻り、彼女に自室で休むことを勧めて僕自身の部屋へ帰ったが、父さんの持ち物はどれも興味深く、結局眠ることはなかった。

 天体の本や神話の絵本、小さな船の模型──。



 どれだけ父さんと父さんの父親が、海を、シレーネを愛してやまなかったかが思い遣れる。
 けれど此処に有る全ては、二度と父さんの(もと)には戻らなかったのだろう。父さんが船乗りの見習いになってまもなく、この家は一度他人の物になったのだから。実際我が家で見たことのある物は一つとてなかった。

 これはアーラ様が父さんと会って得た記憶から、造り出された産物なのだろうか。いや、父さんの父親の記憶かもしれない。あの砂浜で二人は再会し、父さんは父親のカケラを手に入れた。 
 大事にしていた懐中時計。アーラ様にとっては印象の強い数少ない人間。

「今日はこの辺にしておこうかの。アモール、ティアラ……テーブルに皿を並べておくれ」

 そう言い終わる前に、あの白いテーブルには人数分の食器が積み重なっていた。二人が並べた後、アーラ様の目配せ一つで豪勢な食事が瞬く間に現れる。

「わっ、ギリシャで食べたご馳走みたい」
「まぁな。そなたの記憶を介して作り上げた食事じゃからの」
「え……? あ、本当だ。同じ味……」

 思いがけずギリシャの宮廷料理を味わえた僕達は喜んで食事を進めたが、モカは口に入れる物全てに未体験の味が見当たらず、終始目を丸くしたままだった。

「アーラばば様、次はジルの記憶にしてね。ルーラおば様の料理の方が絶対に美味しいもの」
「ほほっ、そうじゃの」

 食後、口を尖らせたモカは、アーラ様に次のリクエストをした。
 アーラ様にとって僕の両親は、初めて此処を訪れた『生ける者達』だ。僕は此処で過ごした両親の六日間を、断片的にしか知らない。二人は此処で何を感じ、何を学んで、何を得たのだろう。そしてそれはアーラ様に、どんな影響を及ぼしたのか──。

「未だ数時間だが……アモール、そなたはもう少し集中力と忍耐力を身に付けぬとな。唄と魔法の技量はあるが、それ以外は厳しいところじゃ」
「え~、……はーい」

 大おばテーアの紅茶を僕の記憶から探り出したアーラ様は、美味しそうにすすりながら、ギョロリとした眼でモカに今日の反省点を告げた。

「反対にティアラは唄が宜しくない。技量もアモールに劣っていないのだから、自信を持って歌いなされ。それ以外は悪くないぞ」
「はい……」

 ティアは恥ずかしそうに俯いて小さな返事をし、そして僕をチラッと見た。『あの時』ばかりは必死に歌ったが、シレーネの末裔と思えぬほど人前で歌うことを恥ずかしがるのは昔からだ。おそらくはモカの元気な歌声に萎縮しているところもあろうが、今の仕草から察するに、僕への恥じらいもあるのかもしれない。

「さて……最後にジョエルじゃが」

 アーラ様は其処まで話して、少し苦々しい顔をした。

「『何でも無難にこなしてしまうが故に、真剣味が伝わってこない』──でしょうか?」

 一旦口をつぐんだアーラ様に代わり自己分析を語る。たちまちアーラ様の左口角がじんわりと上がった。

「ふむ……自分でも分かっているとなると、またたちが悪いな」
「僕もそう思います」

 人間の学校でも同じことを言われたことが思い出される。それを聞いた母さんも同じように苦笑いをしていたっけ。

「海賊に襲われた時、あんなに真剣だったじゃない」
「……さすがに、ね」

 モカが珍しく助け舟を出したが、やはりあれとこれでは考える次元が違っていた。

「まぁ、三人共少しずつじゃ。今夜はこれで休むとしよう。部屋に戻れば室内は暗い。明るくなったらまた此処へ出てきなさい」
「あ……はい」

 宙に浮いたアーラ様は前回同様返事を待たずに自室へ向かってしまい、急に取り残されたような僕達は顔を見合わせた……が、

「じゃあ……僕は休むとするよ。おやすみ、二人共」

 ティアが何かを言いたそうな顔をしてモカを見つめていたので、僕はお先に退散することにした。
 もちろん。聞き耳は立ててみるけどね。

「どうしたの? ティア」

 僕が自室の扉を閉めた途端発せられたモカの言葉。気付かれないように少しだけ隙間を残して覗いてみる。ちょうどモカが僕の座っていた席に移るところだった。

「ジョエル……何も言わないの」

 ティアの口調は不安を表していた。

「何もって? 此処に来た目的のこと?」
「うん……私、ジョエルの希望にあれだけ反対したのよ。そして真逆のお願いをした……姉さんが休んでいる間に、二人で砂浜まで行ったけど、その時も一切その話は出なかったの」
「ふーん」

 人魚になりたい僕──人間になりたいティア。

 だけど彼女は本当に人間になりたいのだろうか? 今迄のティアにそう思える雰囲気はなかった。外界を見て気が変わったのか? いや、きっとティアの願いは結界を出てくる前から決まっていた筈だ。そして僕の希望にあれだけ驚いたところを見る限り、彼女は僕が人魚になりたいなどと、露ほども考えてはいなかった。

「……ジルは多分、今はその時でないと思っているんじゃない?」
「え?」

 僕から見えるモカの横顔は、薄っすら笑んでいるように思えた。

「あなた達、お互いを好きだと分かったのも未だ昨日のことじゃない。あたし達、生まれた時から随分一緒にいたかもしれないけれど、そういう感情を共に育ててきた訳ではないし……今、先のことを話しても、出口が見えないままぶつかるだけだと思ったのよ」

 さすが、モカ──。

 旅の途中もどれだけ感心したかしれないが、僕の想いをきっちり代弁してくれたモカを改めて見直した。いや、違うな……モカは僕の『鏡』なんだ。一見不真面目なようで、実は熟考し行動している。僕達はとても似ているところがあった。

「未だ数日あるわ……少し様子を見たら?」
「姉さん……」

 それでもティアは少し(しこ)りを残しているように見えたが、

「……うん、少し、ね……」

 とりあえずは納得したようだった。

 扉から離れて、足先の飛び出る小さなベッドに横たわる。
 子供だった父さんのベッド──。
 確か此処へ父さんが来た時には、未だ母さんが人間になれるかなんて、父さん自身は知らなかった。それでも母さんを好きだった父さん──。

 僕は人魚になれるの? そして純粋な人魚の血を継ぐ銀髪のティアは人間になれるのか?
 カミルおばさんのことを思い出した。おばさんは此処へ何度来たのか? もし二度目があったとしたら──それは一体何のため?

 そして──。
 僕等の願いを肯定も否定もしなかったアーラ様。
 もしどちらの願いも叶えられないなら、僕達の未来はどうなるのだろう。

 暗闇の中で眼を開いたが、もちろん何の答えも見出せなかった。やがて闇が重く僕の瞼に()し掛かる。そこでぷっつり僕の思考は途絶えて、ラグーンでの初めての眠りが、僕を優しく包み込んでいた──。