薔薇の花言葉 [サファイア・ラグーン2作目]

 ──はて……目を覚まさぬな。手間を省いてやろうと、あそこまで迎えに行ったが、ちと省き過ぎたか。

「うっ……ん……?」

 頭上で聞き慣れない声がした気がして瞼を開くが、眩し過ぎて何も見えなかった。またルラの石が光り出したのだろうか? いや色が違う──ルラが月の光なら、これは太陽のようだ。

 ──顔はルーラに似ているか? が……性格はどちらとも云えぬな。

 僕のこと? 最後は含み笑いに近かったが、とても親しみを感じる笑いだった。

「ジョ……エル……」

 ティア?

 僕の名を呼ぶ微かな声に、ぼんやりとしていた意識が瞬時に引き戻される。勢い良く半身を起こすや、身体中から金色の砂粒が零れ落ちた。

「愛する者の呼びかけには、見事な反応じゃな」

 くっくっく。

 背後から掛けられたしゃがれた笑い声に振り返る。目の前には白いローブに包まれた小さな身体が浮かんでいた。

「あ……」
「アーラばば様っ!?」

 右側からモカが大声を出して飛び起きた。──アーラばば様? このお方が……?

「金の人魚は相変わらずじゃな」

 再びくっくと笑ったアーラ様は、気だるそうに起き上がったティアと、そしてモカと僕の瞼を一撫でした。ややあって景色が一望出来るほどの明るさに変わる。

「アモールの言う通りじゃ。ようこそ……サファイア・ラグーンへ」

 アーラ様の後ろには広大な砂浜が横たわっていた。波の音がして──それは僕達の背後と、そして頭の上に在った! ──此処が両親も旅した終着点、サファイア・ラグーン──。

「多少は親達から聞いているのではないのか? ジョエル……酷い怪我じゃな。ガーゼを取りなされ」

 少々呆然としながらも、アーラ様の言う通り左頬の手当てを外す。皺くちゃの掌が触れるか触れないかの距離で揺らめき、すると途端に痛みが消え、目を丸くしたティアとモカの顔がグッと近付いて、思わず僕はのけぞった。

「怪我が……治った?」

 驚きの表情で呟いたティアの手が、腫れていた筈の頬に触れたが、一切の痛みもなかった。二人の後ろでにんまりとしたアーラ様は僕達の頭上を通り過ぎ、背後の海面へ移動して振り返った。

「来なさい。カミルやルーラも滞在した場所は海中じゃ」

 静かに波間へ沈んでいくアーラ様を追って、僕達が進んでゆく景色は一面にびっしり珊瑚礁が広がっていた。目の前に造られたような小道が一本海底へ続いている。前を泳ぐモカを見ている内に、失神する前のやり取りを思い出して、後ろのティアに聞こえないようモカへ声をかけた。

「モカ……『作戦』って奴、マレーアも一枚噛んでたんだろ? だから別れ際にあんなこと……」
「マレーアが貴方を好きになったって言ったこと? あたし、嘘なんてついてないわよ。……まぁ、ね、本当は協力してもらうつもりだったけど、その前にあなたに一目惚れしちゃったそうだから。()()は彼女の本物の祝福よ。……女って強いのよ?」

 確かに、ね。今回つくづくそう思ったよ。

 モカにいつもの視線であしらわれ、僕は早々に退散した。気になってティアを見返したが、僕達のことに気付くどころか、何かを考え込んでしまったように俯いて、ついて来るのもやっとの状態だった。

 おそらくは──アーラ様の下す『許可』の有無だろう。

 僕は歩みを止めてそのまま立ちはだかった。ほとんど本能だけで進んできたティアの頭が、僕の後頭部にコツンとぶつかった。

「あっ……ごめんなさいっ」

 おでこに手を当てて赤面したティアの、その手を握り締めて再び前進する。

「大丈夫だよ、きっと」

 すると繋いだ手がギュッと握り返された。少々苦々しく口元に笑みを(たた)えるティア。彼女を帰すつもりなら、あの砂浜で告げていた筈だ。僕はそう確信して彼女に笑みを返した。

「此……処……?」

 小道の終点には大きなドーム状の空間が在った。ガラスで覆われているように透け、陸上のように明るいが、中へ入っても見えないだけで水は存在していた。中心には丸テーブルと椅子が四脚──やはりアーラ様はティアを帰すつもりはなさそうだ。

「さて……腹ごしらえでもしておくかの?」

 その言葉に鞄の中の食糧を差し出してみせた。アーラ様は弓なりに目を細め、

「これはこれは……ほほっ、珍しい物が来たのう」

 そしてテーブルの上をさっと手先が(かす)めるや否や、人数分の平皿と何やらスープの入ったカップが現れていた。ティアとモカがマレーアとおじさんの作った料理を並べ、立派なランチタイムが始まった。

「アーラばば様も……食べるのね?」

 食事を進めながらモカがふと口走った。

 確かに昔母さんから、アーラ様が自身を『生きながら死に、死して尚生きる、現世にも死後の世界にも行けぬ生きた(しかばね)』と語ったとは聞かされているが──。

「ふむ、肉体自身は未だ生きているからの。が、あれから何十人も此処を訪れたが、人間の食べる物を持ち込んだ人魚は初めてじゃ」

 そう言ったアーラ様の表情はとても嬉しそうだった。何十人と云っても、この二十年の間に長くても一人七日間だ。それ以外、そしてそれ以前はずっと独りきりの食事だなんて──。

「あの……現れた食器は人間の物に似ていますが……?」
「まあな。知っての通り、ラグーンへの通行料は記憶の一部じゃし、此処に棲むまでは海の中で自由じゃった。海上で人の暮らしを垣間見たこともある故……うろ覚えじゃが。人の食事を味わったこともあるぞ。たった一度きりじゃがな」

 アーラ様の母親が妹であるウイスタ様を産んだ時に得たのだろうか? ならばたった一歳の時のことだ。記憶すらないに違いない。



「なかなか美味しかったぞ。ごちそうさま」

 アーラ様は食後の飲み物を口にして、満足そうに息を吐いた。

「ルーラおば様の作るお菓子はもっと美味しいわよ」

 僕が市場で買った無花果(いちじく)をほおばりながらモカが口を挟む。母さんが此処を訪れた時と、モカの人見知りのない快活な性格が重なったのだろう、懐かしそうな瞳で笑いかけたアーラ様は、しかし次にティアを見つめて、

「カミルに良く似ているな……何も心配すな。追い返しなどせぬ」

 まるで心の不安を読み取ったように微笑みを向けた。

「あ……何故、ですか……?」

 初めてアーラ様に口を開いたティアは、やっとホッとした表情をした。幾らそうは思っていても、アーラ様の口から聞くまでは確信が持てなかったのだろう。

「そなたを此処へ呼んだのは、我じゃからのう」
「えっ!?」

 三人の驚きが重なった。
 アーラ様がティアを呼んだ……?

「誰かを……操っていたということ、ですか?」

 恐る恐る──もしそうなら恐ろしいことだが?

「操るなど……まぁ、しいて言うならカミルかの?」
「えっ!?」

 再び。

「うむ。以前カミルが此処を訪れた際、カミルの持つカームの石にちょっとした魔法を掛けた。そしてアモールの持つアルーの石はカミルの涙じゃからの。カームの石を通してアルーの石に我の魔法を送ったのじゃ」
「それであたし、急に魔法の技術が……」

 モカは余りの驚きに言葉も途切れて、自分の胸元の夕陽色の石を見た。

 しかし本当に驚いた。カミルおばさんが此処を訪れたのはもう二十年も前のことだ──いや、おばさんはその後も来たのかもしれない?

「何故、私を……?」

 そしてそこまでしてティアを呼んだ理由とは──?

「それを話すには未だ時と数が足りぬな。悪い話ではない。しばらく待て」

 ──時と数?

 疑問だらけになった三人をそのままに、アーラ様は再び魔法で今度は皿ごと食べ残しを消した。すっかり綺麗になったテーブルの上に頬杖を突いて、僕達を一人ずつ順に眺めたアーラ様は、最後にモカへ(おもて)を向けた。

「そなたはとりあえず魔法の修行が出来れば良いのじゃな?」
「はっ、はいっ」

 問われたモカは慌てて数回頷いた。そして次は──僕?

「ジョエル……此処へ来た目的は?」

 二人の視線もこちらへ向いた。僕の返事を待つ沈黙。ついに口から出る僕の秘め事──。