二人旅の予定に一名増えたのだから仕方がないが、侍女達お手製の食糧は三日目の朝には底を尽き、僕達はついに海上を目指すことになった。
「いい? 海岸沿いを歩いて果物でも見つからなければ、市場で調達してくるから、僕が帰るまで此処を離れないでよ?」
港から少し距離を置いた緩やかな斜面の、一部広くなった岩場で二人に念を押す。僕の言葉にティアは大きく頷いてみせたが、何故だかモカは心此処に在らずといった様子で、キョロキョロと首をあちこちに振っては落ち着かない。
「この匂い……」
「モカ?」
「あ、ううん。行ってらっしゃい、ジル」
ひとまず疑問を押し戻して、再度モカに言い聞かせる。不安を残しながらも独り陸上へ登った。幸い誰にも見つからずに上陸出来たが、収穫出来そうな果物も見つからない。しばらく探しながら進んでも大した物は手に入らなかったので、結局港の入口へ辿り着いてしまった。
針路が間違っていなければ、此処はシチリアの南西に在るパンテッレリーア島だと思われる。港はなかなかの活気があり、僕の街と同じく、内陸へ続く大通りに大きな市場が在った。こんな時のためにと両親に小遣いを貰ってはいるが、帰り道やティア一人を送る可能性を考えて余り無駄使いは出来ない。それでも日持ちしそうな野菜に果物・露店の手軽な惣菜に、それを包んで食べるパンなどを買い込み、急ぎ戻ろうとした──が。
「モカ!? こんな所で会えるなんてっ!」
──え? ……モカ?
海に面した左手から、男の子の声ではっきり『モカ』と聞こえたのだ。
港の隅の小さな船より、声の主らしき人影が海面を覗いている。そしてその視線の先には、水面から顔を出す二人のシルエットがあった!

「モッ……まったく!」
あれほど僕抜きでは人間と接触するなと言ったのに……あれ? 確か呼んだのは人の方だった──モカの知り合い……?
「こらっ! モカ!!」
岸辺まで走り、小船の陰で談笑する人魚に叫んだ途端、焦った所為か袋の中のトマトが転げ落ちて水に浮いた。未だ熟していない証拠だな……。
「あーもう見つかっちゃった? ごめんっ、ジル!」
今回はさすがにモカも驚いたようだ。しまったという顔をして勢い良く振り返る。反面ティアはおどおどと、姉の後ろで鼻先から下を隠したままだ。それでも熟して沈みかけたトマトを救い出し、浮かんだ未熟のそれも抱えて僕の許へ差し出した。
「ありがとう、ティア。それより──」
「ジル? ティア? もしかしてモカの作戦、成功したの?」
──え?
僕は全ての荷を足元に置いて、目の前の少年を見据えた。十歳にも満たない様子の、良く陽に焼けた笑顔がこちらを無邪気に見つめている。が、その下でモカは慌てふためいていた。──作戦? どういうことなんだ、一体。
「モカの幼馴染みのジルと、妹のティアでしょ? 二人にも会えるなんて! 僕、モカの友達のアドリアーノ。アドルって呼んで」
──『アドリア海の人』……か。まるでうちの父さんみたいなニックネームだな。
そんなことを思いながらおもむろに立ち上がる。船首から握手を求めるように手を伸ばされたので、とりあえず応じてみせた。小柄で痩せてはいるが、握った感じが力強い。モカの友達だと言うが、ギリシャの帰りにでも知り合ったのだろうか。
「よろしく、ティア」
アドルは僕に続いてティアにも握手を求めたが、彼女は沈黙したままモカの後ろへ隠れてしまった。初めての海上に突然の遭遇だ。戸惑っても仕方がない。
「ごめんなさい、アドル。この子、人間に会うの初めてなの。その内慣れると思うから少し待ってて」
「うん、大丈夫だよ。……ねぇ、これから昼食? 良かったらこの船で一緒に食べない?」
アドルの招待に喜んだモカが、こちらを向いて僕の返答を待った。さて……僕は構わないが、ティアはどうだろう?
「……うん」
モカの説得にティアが消極的にも頷いたため、僕は船を沖へ出してもらう条件で、それを受けることにした。
「良かったぁ! それじゃもうすぐ姉ちゃんがごちそう持ってくるから待ってて!」
やがて僕達と同じ年頃の女性が、食糧らしき籠を抱えてやって来た。弟アドルが事情を話し、取り急ぎ舫いを解いて船を出すことにする。これ以上彼女達を水面から出しておくのは不安だった。人の集まる所には悪意のある人間がいるのも否定出来ない。
「マレーアです。どうぞ宜しく」
沖へ向かうまで二人は海中で船を追いかけ、その間にアドルの姉さんが僕に名乗った名前は『潮』を意味していた。二人の父親は漁師だそうだから、海にちなんだ名も納得出来る。長い焦げ茶の髪を二つに結い、アドルと同じように日焼けした肌はほっそりとしていた。活発そうな印象はないが、はにかみながらも握手を求めてきたのは意外だった。
「さ、ティア、おいで」
特に他の船も見当たらない凪いだ海原で船を停め、顔を出した二人の内、まずはティアを船上へ上げようと彼女の眼前に手を伸ばした。
「でも……怖いわ」
マレーアと挨拶するモカの隣で、ティアはやっとのことで顔全体を海面に出した。が、周りの様子や二人の人間の顔色を、悟られないように窺い小さな声で呟く。自ら望んで出てきたならともかく、半ばモカに強制されたようなものだから、この反応は普通だろう。モカはこれを荒療治と呼んだのだろうか。
「大丈夫だよ。モカも僕も傍にいるから。僕の首の後ろで両腕を絡めて。……そう、いい子だ」
船から半身を乗り出すと、ティアも観念したように恐る恐る僕の背後に腕を回した。正直、水のない空間で彼女の肌に触れるなんて、こちらも初体験に等しいのだ。僕の方がドギマギしてしまう。
「何て……美しいのかしら──」
抱き上げて全身が空中に露わになるや、マレーアから感嘆の言葉と溜息が洩れた。ティアは恥ずかしがって僕の鎖骨に額を付け顔を隠したが、淡いブルーグリーンの鱗の波と、太陽に晒されたことのない白い肌は、陽の光よりも眩しかった。
「アドル、悪いけど此処に椅子を置いてもらえるかい? ……そう、ありがとう。ティア、降ろすよ。此処に腰かけて。マレーア、其処のタオル、海水で濡らしてくれる?」
僕は高く昇った陽を避けて、船室の壁で日陰になったスペースにティアを座らせた。受け取った濡れタオルを彼女の鱗に覆い被せる。これでしばらくは乾かないだろうし、万が一他の船に見られても、人魚とは気付かれないだろう。
「あの、ありがとう、ジョエル……あと、えっと……ア、アドル……マレーア……」
依然俯いたまま誰の姿も見られないティアだったが、この姉弟への抵抗は薄れたようだ。そうしている間にモカは自力で浮かび上がり乗船していた。魔法の力が強まっているのかもしれない。
「太陽……っていうの? この光って熱いのね。水の中と違って身体も重く感じるわ」
椅子の横に座り込んで、早速手に入れた食糧を広げた。僕を見下ろす彼女の表情は気だるく思えたが、辺りの様子や見慣れない食べ物に少しずつ興味を持ち始めているようだ。
「陸上では浮力が働かないからね。それでもティアは軽いくらいだったよ」
ふっくらしたパンを裂いて、スライスしたトマトやチーズを挟んで渡す。それを受け取ったティアの頬は上気して、ほんのりと紅く染められていた──そう……か。抱き上げたのはこの僕だ──いや紅いのは、夏の空気の所為に違いない。

「あ、そっそうだ、二人も良かったら食べて。モカは? ギリシャでもっと美味しい物食べたんだろ?」
話題を変えようとアドル達にも急いでパンを手渡した。その間に座ったモカに会話を振ったが、その表情はニヤニヤとして、僕の気持ちはお見通しといった様子だった。
「食べたわよー父様の船で色々ご馳走になったわ。でも美味しかったのは、アドル達の船で出してくれた新鮮なお魚の方だったわね。父様の給仕が作る手の込んだ高級料理は、私には上品過ぎたみたい。アドルの父様は漁師だけど、料理の腕も絶品よ」
どれだけ彼等の船にお邪魔しているのか……。モカはアドルと顔を見合わせて笑い、僕の差し出すパンを手に取りながらも、マレーアから勧められた料理を口にして美味しいと叫んだ。彼女の外界への適応能力は、人魚界随一と云えるだろう。
「姉ちゃんは今まで僕から話を聞いていただけで、今日初めてモカに会ったのだけど、父ちゃんと僕はずっと前から友達なんだ。初めはビックリしたけど、色々教えてもらったよ。ジルのお母さんのこととか、サファイア・ラグーンのこととか……」
──ずっと前……から?
ハッとして僕を見たティアと目が合った。モカは慌ててアドルの口を塞ぎ、バツが悪そうにこちらを見つめている。モカの外界への出入りは、つい最近許可されたばかりなのに──。
「えぇと……実は、結界に穴を開けて保持出来るようになったのは、三ヶ月も前のことなのよ……お願い、二人共! 母様には黙ってて!」
「モカぁっ!」
何てことだ……成人を迎えたあの誕生日が初の外界ではなく、その三ヶ月も前から人と接触していたなんて!
「姉さん……やり過ぎよ」
さすがにティアも呆れ顔だ。だがどうしてだろう? 通常そんな魔法はアーラ様から与えられる筈で、自分の能力で得られる訳ではないのだ。だからこそ成人までは外界へ出られないという掟が有効だったのに──いや、実際成人する前からモカは僕のために空間を保持してみせた。そして今回ティアのためにも──あの時もっと疑問に思うべきだった。
「あの……モカさんとティアさんは姉妹なのでしょ? でもジルさんは? 人間……ですよね?」
頭の中の混乱を、マレーアの質問が中断させた。姉を諌めるティアの小言も止まって、その視線は僕に移り、表情は不安を描いていた。
「いや……僕も人魚のはしくれだよ。父さんは人間だけど、母さんはモカと同じように、人魚と人間の間に生まれた人魚だった。普通の人魚は人間との間に子供を産んでも、生まれてくるのは必ず女の子なんだけど、母さんやモカはちょっと特殊でね。その所為で僕は人間の身体をした『男』として生まれたのだと思う……ああ二人とは従兄妹だよ。それから“さん”なんて付けなくていいから」
僕はマレーアに薄く笑んで説明をし、そしてティアを見た。彼女は安心したような、それでいて不満の残るような不思議な表情をして、そして瞳を逸らした。
「ねぇ、三人は地中海の西に在るサファイア・ラグーンていう所へ向かっているのでしょ? だったら夕方まで此処で待てない? 今夜父ちゃんが大きい方の船で西の漁場へ出発するんだ。一緒に行こうよ。ラグーンへも早く着けるし、僕達も楽しいし。姉ちゃんも付き合うだろ?」
「うん……三人が一緒なら、たまには船に乗るわ」
アドルの提案にマレーアは少しはにかんで承諾をした。それから真正面の僕をチラと見上げ、嬉しそうにモカと話の続きを始めた。同い年同士、どうも気が合ったようだ。
「ティア?」
そんな二人を眺めるティアはやはり微妙な顔つきだった。人間と仲良くする姉を目の当たりにして──荒療治? 嫉妬という言葉を思い出した。やはりティアのやきもちは姉に接する人間に向けられているのか?
「……うん?」
「あ……人間の食事は口に合った? もう少し食べるかい?」
出来ればそんな蟠り、僕の力で払拭したかった。
「とても美味しかったわ。時々戴くルーラおば様の手料理には敵わないけれど……もうお腹一杯よ」
気を取り直したように笑顔を作るティアの想いの先端が、僕の胸の奥底を刺し貫いていた。君のその翳りはどうしたら消えるの? 僕には助けてあげられないの?
「ティア! ねぇ、一晩だけアドルの船に乗せてもらってもいい?」
そんな妹の心情をどこまで理解しているのか、モカはマレーアと意気投合してしまい、今夜の段取りを決め出してしまった。とはいえ、あれでかなり妹のことを考えて行動しているのだ。口は出すまい。
「これは姉さんの旅なのだから、姉さんがしたいようにした方がいいわ。私のことは気にしないで」
心配げにティアの返事を待つアドルとマレーアに、ティアは自然な笑顔を見せた。内心では二人と仲良くしたいのだろう。
「じゃあ決まりね! ちょっと陽差しが強いから、あたし達これから海へ戻るわ。アドル、これ持ってて。それがあればこちらではアドルの位置が分かるから、この辺りに反応を見つけたら、海上に顔を出すわ」
モカは食事の残骸を片付けながら、おもむろに鱗を一枚引き抜いてアドルに手渡した。人魚の剥ぎ取った鱗は、その持ち主の石を持つ者なら何処に在るのか把握出来るのだ。過去に生前ウイスタ様が抜いた物と、母さんが父さんのために抜いた物を見たことがあるが、そんなに安易にやっていい物なのか?
「大丈夫よ。髪や爪と一緒で、また生えてくるから」
「う……うん」
アドルはおっかなびっくり手にしながらも、その美しさに目を奪われていた。モカとティアの鱗の色はとても良く似ている。カミルおばさんと母さんのそれも似ているように──母さんの鱗はたった一枚しか現存しないが、輝きは失われず、今でもその美しさは容易に想像出来るほどだ。
「それじゃ、行くわね。マレーア、とても美味しかったわ、ごちそう様! また今夜ね!」
モカは手を振って先に海へ飛び込んでしまった。僕は慌てて残りの食糧を鞄に詰め、立ち上がるティアの手を取った。二人にお礼を言い、一緒に海へダイブする。
「姉さん、本当に外の世界が好きなのね」
隣で泳ぐティアは、まさに水を得た魚のように生き生きとしていた。
その言葉から寂し気な面持ちを想像して横顔を見たが、意外なことに引っ掛かるような想いは存在しなかった。
目の前では満足そうに佇むモカの姿が、僕達二人を待っていた──。

「いい? 海岸沿いを歩いて果物でも見つからなければ、市場で調達してくるから、僕が帰るまで此処を離れないでよ?」
港から少し距離を置いた緩やかな斜面の、一部広くなった岩場で二人に念を押す。僕の言葉にティアは大きく頷いてみせたが、何故だかモカは心此処に在らずといった様子で、キョロキョロと首をあちこちに振っては落ち着かない。
「この匂い……」
「モカ?」
「あ、ううん。行ってらっしゃい、ジル」
ひとまず疑問を押し戻して、再度モカに言い聞かせる。不安を残しながらも独り陸上へ登った。幸い誰にも見つからずに上陸出来たが、収穫出来そうな果物も見つからない。しばらく探しながら進んでも大した物は手に入らなかったので、結局港の入口へ辿り着いてしまった。
針路が間違っていなければ、此処はシチリアの南西に在るパンテッレリーア島だと思われる。港はなかなかの活気があり、僕の街と同じく、内陸へ続く大通りに大きな市場が在った。こんな時のためにと両親に小遣いを貰ってはいるが、帰り道やティア一人を送る可能性を考えて余り無駄使いは出来ない。それでも日持ちしそうな野菜に果物・露店の手軽な惣菜に、それを包んで食べるパンなどを買い込み、急ぎ戻ろうとした──が。
「モカ!? こんな所で会えるなんてっ!」
──え? ……モカ?
海に面した左手から、男の子の声ではっきり『モカ』と聞こえたのだ。
港の隅の小さな船より、声の主らしき人影が海面を覗いている。そしてその視線の先には、水面から顔を出す二人のシルエットがあった!

「モッ……まったく!」
あれほど僕抜きでは人間と接触するなと言ったのに……あれ? 確か呼んだのは人の方だった──モカの知り合い……?
「こらっ! モカ!!」
岸辺まで走り、小船の陰で談笑する人魚に叫んだ途端、焦った所為か袋の中のトマトが転げ落ちて水に浮いた。未だ熟していない証拠だな……。
「あーもう見つかっちゃった? ごめんっ、ジル!」
今回はさすがにモカも驚いたようだ。しまったという顔をして勢い良く振り返る。反面ティアはおどおどと、姉の後ろで鼻先から下を隠したままだ。それでも熟して沈みかけたトマトを救い出し、浮かんだ未熟のそれも抱えて僕の許へ差し出した。
「ありがとう、ティア。それより──」
「ジル? ティア? もしかしてモカの作戦、成功したの?」
──え?
僕は全ての荷を足元に置いて、目の前の少年を見据えた。十歳にも満たない様子の、良く陽に焼けた笑顔がこちらを無邪気に見つめている。が、その下でモカは慌てふためいていた。──作戦? どういうことなんだ、一体。
「モカの幼馴染みのジルと、妹のティアでしょ? 二人にも会えるなんて! 僕、モカの友達のアドリアーノ。アドルって呼んで」
──『アドリア海の人』……か。まるでうちの父さんみたいなニックネームだな。
そんなことを思いながらおもむろに立ち上がる。船首から握手を求めるように手を伸ばされたので、とりあえず応じてみせた。小柄で痩せてはいるが、握った感じが力強い。モカの友達だと言うが、ギリシャの帰りにでも知り合ったのだろうか。
「よろしく、ティア」
アドルは僕に続いてティアにも握手を求めたが、彼女は沈黙したままモカの後ろへ隠れてしまった。初めての海上に突然の遭遇だ。戸惑っても仕方がない。
「ごめんなさい、アドル。この子、人間に会うの初めてなの。その内慣れると思うから少し待ってて」
「うん、大丈夫だよ。……ねぇ、これから昼食? 良かったらこの船で一緒に食べない?」
アドルの招待に喜んだモカが、こちらを向いて僕の返答を待った。さて……僕は構わないが、ティアはどうだろう?
「……うん」
モカの説得にティアが消極的にも頷いたため、僕は船を沖へ出してもらう条件で、それを受けることにした。
「良かったぁ! それじゃもうすぐ姉ちゃんがごちそう持ってくるから待ってて!」
やがて僕達と同じ年頃の女性が、食糧らしき籠を抱えてやって来た。弟アドルが事情を話し、取り急ぎ舫いを解いて船を出すことにする。これ以上彼女達を水面から出しておくのは不安だった。人の集まる所には悪意のある人間がいるのも否定出来ない。
「マレーアです。どうぞ宜しく」
沖へ向かうまで二人は海中で船を追いかけ、その間にアドルの姉さんが僕に名乗った名前は『潮』を意味していた。二人の父親は漁師だそうだから、海にちなんだ名も納得出来る。長い焦げ茶の髪を二つに結い、アドルと同じように日焼けした肌はほっそりとしていた。活発そうな印象はないが、はにかみながらも握手を求めてきたのは意外だった。
「さ、ティア、おいで」
特に他の船も見当たらない凪いだ海原で船を停め、顔を出した二人の内、まずはティアを船上へ上げようと彼女の眼前に手を伸ばした。
「でも……怖いわ」
マレーアと挨拶するモカの隣で、ティアはやっとのことで顔全体を海面に出した。が、周りの様子や二人の人間の顔色を、悟られないように窺い小さな声で呟く。自ら望んで出てきたならともかく、半ばモカに強制されたようなものだから、この反応は普通だろう。モカはこれを荒療治と呼んだのだろうか。
「大丈夫だよ。モカも僕も傍にいるから。僕の首の後ろで両腕を絡めて。……そう、いい子だ」
船から半身を乗り出すと、ティアも観念したように恐る恐る僕の背後に腕を回した。正直、水のない空間で彼女の肌に触れるなんて、こちらも初体験に等しいのだ。僕の方がドギマギしてしまう。
「何て……美しいのかしら──」
抱き上げて全身が空中に露わになるや、マレーアから感嘆の言葉と溜息が洩れた。ティアは恥ずかしがって僕の鎖骨に額を付け顔を隠したが、淡いブルーグリーンの鱗の波と、太陽に晒されたことのない白い肌は、陽の光よりも眩しかった。
「アドル、悪いけど此処に椅子を置いてもらえるかい? ……そう、ありがとう。ティア、降ろすよ。此処に腰かけて。マレーア、其処のタオル、海水で濡らしてくれる?」
僕は高く昇った陽を避けて、船室の壁で日陰になったスペースにティアを座らせた。受け取った濡れタオルを彼女の鱗に覆い被せる。これでしばらくは乾かないだろうし、万が一他の船に見られても、人魚とは気付かれないだろう。
「あの、ありがとう、ジョエル……あと、えっと……ア、アドル……マレーア……」
依然俯いたまま誰の姿も見られないティアだったが、この姉弟への抵抗は薄れたようだ。そうしている間にモカは自力で浮かび上がり乗船していた。魔法の力が強まっているのかもしれない。
「太陽……っていうの? この光って熱いのね。水の中と違って身体も重く感じるわ」
椅子の横に座り込んで、早速手に入れた食糧を広げた。僕を見下ろす彼女の表情は気だるく思えたが、辺りの様子や見慣れない食べ物に少しずつ興味を持ち始めているようだ。
「陸上では浮力が働かないからね。それでもティアは軽いくらいだったよ」
ふっくらしたパンを裂いて、スライスしたトマトやチーズを挟んで渡す。それを受け取ったティアの頬は上気して、ほんのりと紅く染められていた──そう……か。抱き上げたのはこの僕だ──いや紅いのは、夏の空気の所為に違いない。

「あ、そっそうだ、二人も良かったら食べて。モカは? ギリシャでもっと美味しい物食べたんだろ?」
話題を変えようとアドル達にも急いでパンを手渡した。その間に座ったモカに会話を振ったが、その表情はニヤニヤとして、僕の気持ちはお見通しといった様子だった。
「食べたわよー父様の船で色々ご馳走になったわ。でも美味しかったのは、アドル達の船で出してくれた新鮮なお魚の方だったわね。父様の給仕が作る手の込んだ高級料理は、私には上品過ぎたみたい。アドルの父様は漁師だけど、料理の腕も絶品よ」
どれだけ彼等の船にお邪魔しているのか……。モカはアドルと顔を見合わせて笑い、僕の差し出すパンを手に取りながらも、マレーアから勧められた料理を口にして美味しいと叫んだ。彼女の外界への適応能力は、人魚界随一と云えるだろう。
「姉ちゃんは今まで僕から話を聞いていただけで、今日初めてモカに会ったのだけど、父ちゃんと僕はずっと前から友達なんだ。初めはビックリしたけど、色々教えてもらったよ。ジルのお母さんのこととか、サファイア・ラグーンのこととか……」
──ずっと前……から?
ハッとして僕を見たティアと目が合った。モカは慌ててアドルの口を塞ぎ、バツが悪そうにこちらを見つめている。モカの外界への出入りは、つい最近許可されたばかりなのに──。
「えぇと……実は、結界に穴を開けて保持出来るようになったのは、三ヶ月も前のことなのよ……お願い、二人共! 母様には黙ってて!」
「モカぁっ!」
何てことだ……成人を迎えたあの誕生日が初の外界ではなく、その三ヶ月も前から人と接触していたなんて!
「姉さん……やり過ぎよ」
さすがにティアも呆れ顔だ。だがどうしてだろう? 通常そんな魔法はアーラ様から与えられる筈で、自分の能力で得られる訳ではないのだ。だからこそ成人までは外界へ出られないという掟が有効だったのに──いや、実際成人する前からモカは僕のために空間を保持してみせた。そして今回ティアのためにも──あの時もっと疑問に思うべきだった。
「あの……モカさんとティアさんは姉妹なのでしょ? でもジルさんは? 人間……ですよね?」
頭の中の混乱を、マレーアの質問が中断させた。姉を諌めるティアの小言も止まって、その視線は僕に移り、表情は不安を描いていた。
「いや……僕も人魚のはしくれだよ。父さんは人間だけど、母さんはモカと同じように、人魚と人間の間に生まれた人魚だった。普通の人魚は人間との間に子供を産んでも、生まれてくるのは必ず女の子なんだけど、母さんやモカはちょっと特殊でね。その所為で僕は人間の身体をした『男』として生まれたのだと思う……ああ二人とは従兄妹だよ。それから“さん”なんて付けなくていいから」
僕はマレーアに薄く笑んで説明をし、そしてティアを見た。彼女は安心したような、それでいて不満の残るような不思議な表情をして、そして瞳を逸らした。
「ねぇ、三人は地中海の西に在るサファイア・ラグーンていう所へ向かっているのでしょ? だったら夕方まで此処で待てない? 今夜父ちゃんが大きい方の船で西の漁場へ出発するんだ。一緒に行こうよ。ラグーンへも早く着けるし、僕達も楽しいし。姉ちゃんも付き合うだろ?」
「うん……三人が一緒なら、たまには船に乗るわ」
アドルの提案にマレーアは少しはにかんで承諾をした。それから真正面の僕をチラと見上げ、嬉しそうにモカと話の続きを始めた。同い年同士、どうも気が合ったようだ。
「ティア?」
そんな二人を眺めるティアはやはり微妙な顔つきだった。人間と仲良くする姉を目の当たりにして──荒療治? 嫉妬という言葉を思い出した。やはりティアのやきもちは姉に接する人間に向けられているのか?
「……うん?」
「あ……人間の食事は口に合った? もう少し食べるかい?」
出来ればそんな蟠り、僕の力で払拭したかった。
「とても美味しかったわ。時々戴くルーラおば様の手料理には敵わないけれど……もうお腹一杯よ」
気を取り直したように笑顔を作るティアの想いの先端が、僕の胸の奥底を刺し貫いていた。君のその翳りはどうしたら消えるの? 僕には助けてあげられないの?
「ティア! ねぇ、一晩だけアドルの船に乗せてもらってもいい?」
そんな妹の心情をどこまで理解しているのか、モカはマレーアと意気投合してしまい、今夜の段取りを決め出してしまった。とはいえ、あれでかなり妹のことを考えて行動しているのだ。口は出すまい。
「これは姉さんの旅なのだから、姉さんがしたいようにした方がいいわ。私のことは気にしないで」
心配げにティアの返事を待つアドルとマレーアに、ティアは自然な笑顔を見せた。内心では二人と仲良くしたいのだろう。
「じゃあ決まりね! ちょっと陽差しが強いから、あたし達これから海へ戻るわ。アドル、これ持ってて。それがあればこちらではアドルの位置が分かるから、この辺りに反応を見つけたら、海上に顔を出すわ」
モカは食事の残骸を片付けながら、おもむろに鱗を一枚引き抜いてアドルに手渡した。人魚の剥ぎ取った鱗は、その持ち主の石を持つ者なら何処に在るのか把握出来るのだ。過去に生前ウイスタ様が抜いた物と、母さんが父さんのために抜いた物を見たことがあるが、そんなに安易にやっていい物なのか?
「大丈夫よ。髪や爪と一緒で、また生えてくるから」
「う……うん」
アドルはおっかなびっくり手にしながらも、その美しさに目を奪われていた。モカとティアの鱗の色はとても良く似ている。カミルおばさんと母さんのそれも似ているように──母さんの鱗はたった一枚しか現存しないが、輝きは失われず、今でもその美しさは容易に想像出来るほどだ。
「それじゃ、行くわね。マレーア、とても美味しかったわ、ごちそう様! また今夜ね!」
モカは手を振って先に海へ飛び込んでしまった。僕は慌てて残りの食糧を鞄に詰め、立ち上がるティアの手を取った。二人にお礼を言い、一緒に海へダイブする。
「姉さん、本当に外の世界が好きなのね」
隣で泳ぐティアは、まさに水を得た魚のように生き生きとしていた。
その言葉から寂し気な面持ちを想像して横顔を見たが、意外なことに引っ掛かるような想いは存在しなかった。
目の前では満足そうに佇むモカの姿が、僕達二人を待っていた──。




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