この手に愛と真実を〜クールな検事の一途な想い〜【書籍化】

「いくらコネ入社だからって《ほうれん草》も知らないのかね? 黒岩副社長って」

凜香がデスクに置いたコーヒーを「ありがとう」と受け取ってから、社長が言う。
凜香もクスッと笑って頷いた。

「ほうれん草をご存知ですかと尋ねたら、ポカンとされそうですね」
「だろうな。聞いてみればよかった。バカにしてるのかー!って怒られるだけだろうけど」

余裕の笑みを浮かべて、社長はゆったりとコーヒーを飲む。

「深月さんは、いつほうれん草を習ったの?」
「入社してすぐの研修の初日です。これは社会人の鉄則だと言われて、ノートに大きく書き留めました。企業にとって社員ひとりひとりの《報告・連絡・相談》が何より大事だと。今も日々それを忘れずにいます」
「ああ、私もだ。たとえどんな些細なことでも、なにかミスをしたとしても、絶対にその三つを忘れてはいけない。基本中の基本だよな」
「ええ。自分で処理したり判断を下す前に、必ずすべきことです」
「それができていないのは、役員たちだけだろうな。情けない。今度新入社員に役員を研修してもらおうか」
「逆に、ですか?」
「ああ。いいアイデアじゃない?」
「ふふ、確かに」

二人で微笑み合ってから、話を戻す。

「不正アクセスは懸念事項だが、今のところ大きな被害はない。警察も動いてくれている。それになにかあれば、警察は君に連絡をくれることになっているんだろう?」
「はい。私からも連絡を取れるよう、携帯電話の番号が書かれた名刺もいただきました」
「それなら今は君が頼みの綱だ。よろしく頼むよ」
「かしこまりました。連絡があればすぐに社長に報告いたします」
「ああ。他に我々が社内で気をつけなければいけないのは、やはり副社長かな」

凛香も小さく頷いてから声を潜めた。

「実は昨日検事さんに、私が不正アクセスがあったことを知らないのは、社長が敢えて私に黙っていたからではと言われました。ですがその時、私は即座にそれはないと思い、ふと副社長を思い浮かべたのです。根拠はないのですが、社長の知らないところで副社長が動いている気がして……。私がこんなことを考えるのは、部下として咎められることですが」
「いや、そんなことはない。陰口を叩くのとは違うんだ。深月さんにはこれからも、率直に私に考えを伝えてほしい。私と君の間には確固たる信頼関係があるんだから」
「ありがたいお言葉、恐れ入ります」

そう言ってから、凛香は少し考えを巡らせた。

「社長、来週の金曜日にIT企業の懇親会がありますよね?」
「ああ。それがどうかしたか?」
「副社長は不参加のご意向だとうかがっていましたが、昨日副社長の秘書から会場と時間について聞かれました。間に合えば少しだけでも顔を出したいからと」
「へえ、そうなんだ。それがどうかした?」
「ええ、あの。上手く言えないのですが、妙に気になって。副社長が、わざわざ少しだけでも顔を出そうとされるなんて、これまでなかったので」
「確かに。言われてみればそうだな。あの懇親会は男性が多いし、今後のIT企業が目指す在り方や指針を話し合う真面目な会だ。こう言っちゃ身も蓋もないが、黒岩副社長が好む、綺麗にドレスアップした女性と楽しくお酒を飲むパーティーとは違う。そこにわざわざ顔を出しに来ようとするのは妙だな」

じっと一点を見据えてから、社長は顔を上げる。

「深月さん、懇親会のことを警察に伝えておいてくれる? もしかしたら不正アクセスについての手がかりが掴めるかもしれない。なにせ、首都圏のIT企業が一堂に会するからね。まあ、実際に動いて捜査するかどうかは、あくまであちら次第だけど。念のためのお知らせとして」
「承知いたしました。連絡しておきます」

秘書室に戻る前に、誰もいないリフレッシュラウンジに立ち寄り、スマートフォンと名刺をニ枚取り出す。
どちらにかけようか迷ってから、昨日のやり取りを思い出し、凛香は朝比奈検事の番号にかけた。