紫陽花の憂鬱

 『着いたよ』という短いメッセージが来て、紫月が部屋を出ると見慣れない車が停まっていた。トトトと階段を駆け下りてひょっこりと窓を覗くと、日向がいつも通りの笑顔を浮かべていた。

「お待たせしました。」
「あのっ、今日はよろしくお願いします。」
「うん、こちらこそ。安全運転で行きます。」
「途中で代わる…?」
「あ、紫月さんも免許持ってる?もしかして運転得意?」
「う、ううん!免許はあって、その…地元にいたときは実家に車があったから結構運転はしていたけど…最近は…あんまりしてない、から…あ、でも、その勘を取り戻せばできないことはないかなって。」

 運転自体は嫌いではないし、丁度実家の車も今日のレンタカーと同じくらいの大きさだったため、駐車でも大きなトラブルにはならないとは思う。それに片道1時間半くらいをずっと運転させるのも忍びなかった。

「うわぁそうなんだ!免許持ってるって知らなかったから意外!」
「…下手そう、だよね…運転。」
「え、全然?絶対安全運転タイプでしょ。」

 ゆっくりとアクセルが踏まれ、車が動き出した。ハンドルを握る手が意外とごつごつごつとしていて、紫月は思わずまじまじと見てしまう。

「…ん?何か物珍しいことでもあった?」
「あっ、ご、ごめんなさい、じろじろ見ちゃって…。」
「何見てた?」
「えっと…あの、普段ちゃんと見てなかったんだなって思って…あの、日向くんの手、見てました。」
「手?」

 白状すると一気に恥ずかしさが増して耳が熱い。しかし、日向の声は少し楽しそうに弾んでいる。日向が楽しそうだから、紫月も頑張ってそのままを話してしまっている。

「運転するのも初めて見るし、ハンドル握ってる手が…珍しくて、つい。」
「そういうこと?じゃあ俺も珍しい紫月さん見ちゃっても、適当に見逃してね?」

 そう言って一瞬だけ紫月の方を見つめた日向はすぐに視線を前に戻した。紫月もパッと前を向き、膝の上できゅっと手を丸くした。

「今日は運転、俺するけど。もうちょっと近い場所だったら紫月さんに運転してもらおうか。そういうのはどう?」

 別の機会を用意されると安心する。これが最後の『お出かけ』ではないと思えるから。そんな気持ちで紫月は一度、頷いた。

「…今日は大丈夫?その、疲れたら代わってね、いつでも。」
「うん。じゃあそうさせてもらうね。あ、紫月さん喉は乾いてない?休憩もいつでも挟むから言ってね。あと、ここ寄りたいとかでもいいよ。」
「窓の外、ちゃんとチェックするね。」
「お、いいね。美味しそうなもの見つけたら教えて?」
「うん。」

 高速に乗ってまで行くほどの距離ではないため、下道を気ままに走るコースで行くことに二人で相談して決めた。それこそ紅葉を見る以外は特に何も決まっていなかった。車内に流れる洋楽はラジオなのか、それとも日向の好みなのかはわからない。窓の外の流れゆく景色が、知らない場所だからより一層鮮明に見えて、その一つ一つを何だろうと、寄って何か食べたり飲んだりできる場所かと考えて、そのまま沈黙が落ちる。しばらくしてずっと沈黙してしまったことに気付いた紫月が口を開いた。

「ずっと喋ってなかったね、ごめんなさい!」
「ずっとってほどじゃないよ。何か気になるものはあった?」
「あったにはあったんだけど、その…いっぱい考えてたら通り過ぎちゃって。」
「どういう系だった?」
「秋のスイーツ、多かったかも。かぼちゃソフトとか美味しそうだなって。」
「あーいいね。んーと、ナビによるともうちょっとで道の駅らしいから、一旦寄ってみる?」
「道の駅!」
「そういうところ好き?」

 紫月は頷いた。道の駅は車でないと行きにくい。その地域の美味しいものがたくさんあるため、少し買うだけで満足感を得られるところが好きだった。

「よし、じゃあ寄ろう。何か飲み物買おうかな。」
「何でも言ってね、日向くん。」
「え?」
「何でも食べたいもの、飲みたいもの、買います!」
「えぇ、なんでそんな前のめりなの。もしかして奢ろうとしてる?」
「だ、だって食べ歩きは私が出すって…前に言った、から。」
「…もう、紫月さんは記憶力がいいね。」
「覚えてるよ。だって、…『今度は』って日向くんが言ってくれるの、嬉しいから。」

* * *

(…本当に、そろそろ我慢ができない、かもしれない。)

 ほんのりと香っていた香りが、今日は車内だからとても近く感じられて、足を引きずる様子もなくて、時折頬を染めて俯いたかと思えばとびきり心臓に悪い笑顔を向けてくる。
 あくまで冷静に、いつもの通りの『同期』でいた方がまだいいのか、それとももっと踏み込んでいいのか、彼女から向けられる言葉をどうしたって都合よく解釈しようとしてしまう自分が顔を出して、時々彼女を見つめていられなくなる時がある。その気持ちがなくなりはしないのに、こうしてまた同じ時間を過ごしたくてこうやって外出している。そして一緒に過ごせば過ごすだけ、前のままではいられないのかもしれないとそんな気持ちになる。

「んー…どれにする?」
「…かぼちゃソフトとさつまいもタルトが同時にあるとは…。」
「半分こする?」
「少し多く、日向くん食べれそう?その…甘いものだから、どっちも。」
「ん、紫月さんあんまり食べれそうじゃない?」
「あ、ちょっとその、朝ご飯を食べすぎちゃって…でも食べたいには食べたいんだけど…。」

 彼女がそう言ったため、『そういうことか』と合点がいき、それはそのまま口にしてしまった。

「紫月さんが食べれる分だけ食べていいよ。俺はこれくらいならどっちも食べれちゃうくらいにはお腹の余白残ってるし。」
「じゃあその、どっちも食べたい…な。」
「うん。今年初の秋の味覚だー。」

 サクッと支払いを済ませようと思ったが、彼女が珍しく『絶対にダメです』なんて言うものだから押しに負けて、タルトとソフトクリームの二つを受け取った。そして近くのベンチに腰を下ろした。

「どっちからいく?」
「日向くんは?」
「紫月さんがお財布係したんだから紫月さんが選びます!」
「でもこれはお礼なんだけど…。」
「お礼はもう貰ってるんで、先に食べたい方をいいよ?」
「…じゃあ、ソフトクリーム、もらいます。」
「はーい。とりあえずタルト、一口食べちゃうよ?」
「うん。」

 かぼちゃのタルトは上品な甘さだった。素材そのものの甘さだけでできているような優しい甘さが広がった。ただ口の中の水分は失われたため、一緒に買ったアイスティーをごくりと飲んだ。
 隣の彼女は意外と大きな口でばくっとソフトクリームを食べている。今日もまた、初めてのことばかりでただただこの時間が長く続くことだけを願ってしまう。こうやって少し気の抜けた顔で、美味しそうに頬張って、安心してくれている表情だけを見続けていたくて今日はいつもよりも一層見てしまう。

「日向くん?」
「あ、ごめん。タルトはこのくらいなら食べれそう?」
「えっと、もうちょっと小さくしてもらってもいい?」
「あと一口分くらい食べちゃっていいの?」
「うん。お願いします。」

 一口齧ったあとのタルトを何の躊躇いもなく受け取って、そのまま美味しそうに食べる彼女を見つめながら、自分はといえば彼女がさっきまで食べていたソフトクリームに口がなかなかつけられなくて、そのまま溶けてしまいそうだった。