紫陽花の憂鬱

 念押しされているような言い方なのに怖くないのは、日向の表情がずっと心配や不安で揺れていたからだった。声だけはいつも通り穏やかで、それが余計に紫月の涙腺を刺激した。
 またブーブーと振動する。彼からではないのかもしれないが、昼からずっと連絡を無視している以上、一度確認したら事を進めなくてはならないため、開けられない。返事を考える気力も向き合う度胸もなくて、ただ怖さだけがずっとある。

「…あ…あった…んだけど…でもそれは、私が弱くて怖がってばかりで言えてない…だけ、だから…。」
「…うん。」
「私が悪い、の。」
「どうして紫月さんが悪いの?」
「…はっきりと、言えない、…から…。」
「本当は何が言いたかったの?」

 日向になら言えるのに。これが美味しい、これが楽しいと。なのに彼には何一つ自分の気持ちは言えない。言えなかった過去がある。そしてあの時と変わらないまま、昨日も今日も何一つ返せない。

「…ご飯に、行きたくない…予定を、合わせたくない…って…。」
「あっ、ごめん、今日のやつ、結構無理やりだったもんね!」
「ち、違うの!日向くんのことじゃない…日向くんのことじゃないの。」

 日向とはご飯も一緒に食べれたら嬉しいし、お裾分けをするのもされるのも楽しい。予定を合わせたら緊張はするが、行ってしまえば楽しい。不安は笑顔を見せてもらえたらすぐに吹き飛んでしまう。
 彼も同じ笑顔だったのに、それでもやっぱり何かが違っていて、だからこそ行きたくはないのだ。

「…俺じゃないけど…うーん、男…?ナンパ…だったらその場で断るだろうし…断りにくい…知り合い…あ!あのすっごい嫌な元彼?」

 紫月は静かに頷いた。

「え、どこで?街中でばったり?」
「…えっと、家の近くで声を掛けられて…。」
「ってことは家まで来たんだ…。それは…びっくりしたね。連絡はなかったの?」
「私が、その…別れたあとも連絡する手段持ってたら良くないかなって思って、連絡先はブロックだけしてて。…あの、向こうは連絡してたみたいだけど、私は見れる状態ではなかった…感じで…。」
「偉いね、そういうところ。ちゃんとしてる。誠実だね、本当に。」

 日向の聞き方が上手いから、紫月の方も質問に答える形でぽろぽろと言葉にしてしまう。涙も一緒に落ちてしまいそうだが、まだそこは踏みとどまっている。日向の声のトーンにも『誠実』という言葉一つにも安心してしまって、少しだけゆっくりと息が吸えるようになった。

「食事に行きたいって?」

 首だけで返事をするのは失礼だと思ったが、イエスかノーで答えられる質問はありがたかった。紫月はまた頷いた

「…ヨリ戻したくなって来たってことか~…スマホに通知来ただけでそんなに怖がってるのに、いきなり面と向かって断るなんてできなくて当然だよ。…むしろ、今日病院行って午後はちゃんと仕事してたの、偉すぎじゃない?休んでいいレベルだって。」
「…だって、仕事とこの件は関係ない…から…。」

 紫月がそう言うと、日向の表情は陰った。そして、ただ心配だけを表情に乗せて、日向は口を開いた。

「…一人になったとき、泣きそうな顔で仕事してたの、見てたよ。だから心配だったんだ。とりあえず大きい原因を話してくれてありがとう。よし、まずは先に何か食べよう。ってか食べてもらう!弱ってる紫月さん、ご飯抜きそうだし。紫月さんの好きなもの食べよう、つくねとか。俺も同じの食べる。」

 そう言って日向はタッチパネルに手を伸ばし、居酒屋で紫月が前に頼んでいたものと同じものや似たものをどんどん追加していく。

「…すごいね、日向くん。」
「何が?」
「全部、私が好きなものばっかり…。」
「そりゃ覚えてるでしょ。だって、今は紫月さんのことをたくさん知りたい、俺のことを知ってほしいターンなんだから。」
「…こういう、その…過去のぐちゃっとしたことを解決できない私のことを知っても、日向くんは…。」
「うん。」
「…私にがっかり、してない…?」

 声が震えた。日向に失望されたら悲しい。距離を取られたら、寂しい。日向の隣に立つためには勇気と緊張が必要だけれども、その隣で流れる空気の優しさと温かさを知ってしまったから、それが手からすり抜けてしまうのだとしたら、たとえ自業自得だとしても、今我慢している涙はきっと止められなくなってしまう。

「してないよ。するはずない。…むしろね、そういう話を分けてもらえるくらい、心許してもらえてるのが嬉しいよ。だから紫月さんが嫌だなとか怖いなとか、どういう気持ちかはまぁ今のところわからないけど、でもそういうもってると辛くなる気持ちがなるべくなくなるように、俺にできることはさせてほしい。…辛い思いはしてほしくない。」

 急に目が熱くなったと思ったらもうだめだった。

「…紫月…さん…?」

 ぼろぼろと、今までになかった形で涙が溢れてきて、目の前にいたはずの日向の顔はもう見えなかった。

「…ごめんなさっ…ちょ…ちょっと待って…。」

 咄嗟に下を向き、慌てて鞄の中を漁るが涙が止まらなくてずっとよく見えない。スカートにもシミができるし、きっと机の周りにも水滴が落ちてしまっている。焦れば焦るほど涙が止まらなくて、異常なスピードで落ちてくる。手が滑っていつものポケットを開けることができない。

「…ゆっくりでいいよ。焦らなくて大丈夫。泣いても大丈夫。見ない方がいいなら、紫月さんがいいって言うまで紫月さんの方を見ないこともできる。使ってない綺麗なハンカチはないから貸せないけど、ティッシュはあげられる。…紫月さんのしたいようにしてほしい。注文するのも、もうちょっと落ち着く目途がたったらにしよっか。」

 浅くなった呼吸が少しずつ、ペースを取り戻す。ふぅっと一度ゆっくり息を吐くと、それに応じて酸素が戻ってきた。涙のスピードは変わらないまま、紫月は頷いた。ぽたぽたと床に雫が落ちる。

「…注文はしちゃって…大丈夫。…日向くん、お腹空いてる…でしょう?」

 やっとハンカチを見つけ、紫月はハンカチを二つ折りにして持ち、両手で持ったまま目に当てた。

「俺のことはいいの。どう考えたって昨日も今日も、紫月さんの緊急事態でしょ?」
「…大丈夫。運ばれてくる前には泣き止める…と思う…し、あの、…泣き止め、なかったら…。」
「うん。」
「…この、ハンカチを目に当てたままでいてもいいかな…?」
「うん。いいよ。俺はこのまま、紫月さんのこと見てていいの?」

 紫月は両肘をテーブルにつけて、少し俯いた。目に当てたハンカチはまだまだ外せない。

「…時々、その、適当に見ないでおいてくれると…有難い、です。」
「わかった。じゃあまずは注文しちゃうね。紫月さんは深呼吸して~。」

 日向の声に導かれるように息を吐くと、速かった心拍がゆっくりと落ち着いていくのを感じる。目を擦ると腫れてしまう。ただ流すだけにして、余計な刺激を与えずにどうにか持ち直したい。

(…腫れぼったい顔で日向くんに向き合うわけには、…いかないから。)