紫陽花の憂鬱

「梅原さん?」
「…時間がかかっても、いいの?」

 好きという気持ちがどういうものなのか、わかるまで。日向のことが好きなのかをわかるまで。たくさん言葉を重ねて、相手のことを知って、自分を開示して知ってもらって。そういうことに時間をかけることを、意味のあるものとして考えていいのだろうか。不安で瞳が揺れる紫月の右手がそっと日向の手に包まれる。

「…時間、かけようよ。すぐに変わらなくても、確かに変わるよ。紫陽花もだけど、梅原さんも。」

 日向の手をゆっくりと握り返すと、日向はほんのりと頬を染めて微笑んだ。その微笑みに、さっきまであった不安はどこかにいってしまって、紫月にも笑顔が戻ってくる。

「…変わり、たいな。できれば、日向くんみたいになりたい。」
「ほんと?…じゃあ、そう思ってもらい続けられるように、俺も引き続き頑張んなきゃ。」

 手はほどけないまま、日向が一歩先を行く。紫月もそのまま、置いて行かれないように歩く。

「手、繋いだままでいいの?」
「…ちょっとだけ、頑張る勇気を分けてもらってもいいかな?」
「うん。いくらでもどうぞ。」

 一瞬、強い風が吹いた。風が紫陽花の雫を落とす。雨の香りは遠ざかっていく。紫月の指先は温かいままだ。

「あのさ。」
「うん?」
「二人の時は、紫月さんって呼んでもいい?」

 空いている方の手で照れながら頭をかいてそう言う日向に、紫月は笑って答える。

「うん。あ、あの…!」
「うん、何?」
「わ、私も名前で、呼んだ方がいい…のかな?」

 きゅっと日向の手に力が入ったのを感じる。

「…呼んでくれたら、嬉しい。」

 また一つ、日向の違う笑顔を知ってしまう。今度は手の温度も相まって、きっとお互い、顔が赤い。

「れ、蓮…くん。」

 つっかえながら、おそらくは隣を歩く日向にしか聞こえない声で初めて口にした名前が、空気をわずかに震わせた。

「…なにこれ、めちゃくちゃ照れる。」
「こ、こっちも照れるよ!」
「いやでもこういうのは回数じゃない?たくさん呼べば慣れるって。」
「そ、そうかなぁ。」
「そうそう。」

 頬が熱くて、指が熱くて、湿度の高い空気のせいで胸の奥の方まで熱いような気がしてくる。

「紫月さん。」
「…も、もう呼べないから私は!」
「うん。いいよ、全然。俺が呼びたくなっただけ。」

 ただの名前。あまり好きではなかった名前が、日向に呼ばれるとお守りみたいな響きに聞こえるから不思議だ。このお守りがあれば、明日はきっと今日よりも前を向いて歩ける。そんな思いを込めて、紫月は握られた手を少しだけ強く握り返した。

*fin*