紫陽花の憂鬱

 近付いた紫月を見やった日向の目はゆっくりと紫月の後ろにある、満月になりかけの月へと移った。

「…あの、日向くん、私何か変なことを…。」
「…眩しいのは、梅原さん。入社した時からずっとそうだよ。いつでもきっちり仕事して、ミスもなくて、余計なおしゃべりとかそういうのもなくて。嘘もないし、正直者で。…かっこいいとか、頼れるとか、そういうのも照れないでさらっと言えちゃう人。」

 そう言って、日向は柔らかく微笑んだ。その微笑みのせいなのか、自分の言ったことを繰り返されて初めて、とんでもないことを口走ったことに気付いたからなのか、紫月の頬もほんのりと赤く染まる。月の明るさに負けて、その赤さは日向に読み取られてしまう。

「…赤くなった顔って、今までに見たことなかったかも。」
「ば、ばれた?」
「うん。ばれるよ。梅原さんのことは、これでもそれなりに見てきたよ。」

 同期として見てくれていたととるのが当たり前だと思うのに、少し照れたようにも読めてしまう日向の表情のせいで、紫月の頬の熱が引いてくれない。日向の表情はずっと、日向が言うところの『今までに見たことのない』ものばかりだ。それが紫月の心拍数を少しずつ、でも確実に上げていく。

「…そ、そっか。あ、ありがとう、気にかけてくれて。」
「…あんまり伝わってないな、やっぱり。」
「え?」

 ぽそっと呟かれた言葉は上手く聞き取れなかった。しかし、日向は少し空を見上げ、何かを考えているようでもう一度言ってくれはしなかった。

「紫月。」
「へっ?」

 不意に落ちた、静かな声。自分の名前だから、聞き間違いではなかった。

「紫月って、珍しい名前だよね。」
「下の名前、知ってたんだ…。」

 突然呼ばれた下の名前にドキッとして、思わず声がひっくり返りそうになった。他人にあまり呼ばれることのない下の名前を呼ばれると、恥ずかしいような、どこを見たらいいかわからなくなるような、落ち着かない気持ちになる。

「知ってる。…綺麗な名前だなって思ってたから。今ふと月が目に入ってそういえばって。」
「…びっくりしたよ。下の名前で呼んでくれる人なんて、ほとんどいないし。」
「そうなの?家族はなんか、あだ名?」
「あ、えっと…家族はそう、だね。名前で普通に呼ぶよ。」

 少し陰ったように見えた紫月の表情に、日向はまた一つ、紫月の新しい顔を知る。泣きはしないけれど、心の奥が泣いているように見える切ない顔に、日向は小さく息を吐いて、じわじわと込み上げる苦しさを手放そうとした。