目に映ったのは、狗神の頬に付いた、小さな切り傷。治る気配はない。微量ながら、傷口から紫陽の霊力が流れ込んだらしい。
しかし当然ながら、この程度のすり傷が致命傷になるわけがない。それにもかかわらず、狗神は何故突然攻撃を止めたのだろう。
疑問は浮かぶが、それ以上に今は息を吸うことに必死だった。
「……ようやく見つけた」
狗神は驚きと喜び、興奮が入り混じった声色で呟く。
それから、必死に呼吸を整えている紫陽に聞いた。
「陰陽師。お前の名は?」
「……しよ、です。涼風紫陽」
妖などに教える名はない。そうやって毅然とした態度を取れなかったのは、たった今刻み込まれたばかりの恐怖のせいだろう。
「ほう、よりによって涼風か。……因果なものだな」
狗神は何かに思いを馳せるように目を細める。
それから、軽く屈んで紫陽に目線を合わせ、先ほどと比べ幾分か優しい声で言った。
「俺の花嫁になれ、涼風紫陽」
いったい何を言われたのか、そもそも自分に向けられた言葉なのか……しばらく理解ができなかった。
肩を上下させ息を整えつつ、大きく目を見開いて狗神の鳩羽色の瞳を見返す。
「いったい……どういう、意味……?」
「言葉通りだ。花嫁になれ、と言った」
妖が、天敵であるはずの陰陽師に求婚。
そんなの見たことも聞いたこともない。



