マサトの新しい隣人は、完璧な笑顔を持っていた。
彼女はサエコと名乗り、引っ越してきた初日に手作りのクッキーを持ってきた。
白い歯が整然と並び、目尻が優しく下がるその笑顔は、まるで教科書から飛び出したようだった。
「これからよろしくね、マサトさん」と彼女は言った。
どうやって自分の名前を知ったのかマサトは疑問に思ったが、彼女の笑顔に気圧されて聞けなかった。

サエコは毎日、決まった時間にマサトの部屋の前を通った。
朝8時、昼12時、夜9時。
カーテンの隙間から覗くと、彼女はいつも同じ笑顔で同じペースで歩いていた。
まるで機械のように正確だった。
ある夜マサトがゴミを出しに行くと、サエコが廊下の暗がりに立っていた。
笑顔のまま、じっと彼を見つめていた。
「遅くまで起きてるのね、マサトさん」と彼女は言ったが、声に抑揚がなかった。

数日後、マサトの部屋に異変が起きた。
夜中、壁の向こうから小さな音が聞こえた。
トントン。トントン。
リズミカルで、まるで誰かが壁を軽く叩いているようだった。
サエコの部屋と隣接する壁だ。
マサトは耳を当てたが、音は止んだ。
代わりに、ドアの下から紙が滑り込んできた。
そこには、鉛筆で乱暴に書かれた「マサト、笑って」とあった。
サエコの字だと直感した。

翌朝、サエコはまたクッキーを持ってきた。
「昨日、楽しかった?」と彼女は尋ねたが、マサトは何のことかわからなかった。
彼が黙っていると、彼女の笑顔が一瞬だけ硬直した。
まるで仮面がずれたように。
彼女はすぐに立ち去ったが、マサトの背筋に冷たいものが走った。

その夜、トントンという音が再び始まった。
今度は壁だけでなく、天井や床からも聞こえた。
部屋全体が、誰かに囲まれているようだった。
マサトはドアを鎖で閉め、電気を消さずに縮こまって朝を待った。
だが、夜明け前にドアノブがガチャガチャと動いた。
誰かが外から開けようとしている。
鍵穴から覗くと、サエコの目がこちらを見ていた。
笑顔のまま、瞳だけが異様に大きく、黒々としていた。

マサトは警察に相談したが、証拠がないと言われた。
サエコに直接問いただす勇気はなかった。
彼女はいつも笑顔で、いつも穏やかだったからだ。
だが、ある日、彼はサエコの部屋のゴミ袋を偶然見つけた。
中には、大量の写真があった。
すべてマサトのものだった。
寝ている姿、食事する姿、窓の外を眺める姿。
どの写真にも、赤いペンで「笑って」と書かれていた。

恐怖が限界に達したマサトは、夜中に荷物をまとめて逃げようとした。
だが、玄関を開けた瞬間、サエコが立っていた。
笑顔のまま、手にはハサミを持っていた。
「マサトさん、笑わないと、顔が台無しよ」と彼女は囁いた。
その声は、複数の人間が同時に話しているように響いた。
マサトが後ずさると、彼女は一歩踏み出し、ハサミを振り上げた。

翌朝、アパートは静かだった。
サエコはいつもの時間に廊下を歩き、いつもの笑顔を浮かべていた。
マサトの部屋は空っぽだった。
誰も彼の行方を知らなかったが、サエコの部屋の壁には、新しい写真が貼られていた。
マサトの顔が完璧な笑顔で切り取られ、赤いペンで「完璧」と書かれていた。
彼女はそれを眺めながら、鏡に向かって微笑んだ。
鏡の中の彼女は、笑っていなかった。