撮影初日。ロケ現場に、次々とスタッフや出演者が集まっていた。
朝の空気は緊張感に満ちている。初回のシーン撮りはドラマ全体の空気を決定づける重要なタイミング。脚本家である飛鳥も、現場の隅でモニターを前にしてスタンバイしていた。
機材の音、スタッフの声、照明の調整。すべてが慌ただしく動くなか、彼女の手元には、最終稿の脚本と、あらかじめリハーサル内容をチェックした付箋だらけのノート。準備は万端、のはずだった。
だが、飛鳥の胸には言い知れぬ不安があった。
——この数週間で、遥真との距離が確かに縮まった。
“恋愛レッスン”という名目で過ごした時間。触れ合い、見つめ合い、言葉を交わした日々。
もちろん、すべては役作りのため。演技力を育てるため。
それでも、あの手の温もりや、視線の真っ直ぐさが、今も体に残っていた。
「おはようございます。今日からお世話になります、柊あかねです」
その声が、飛鳥の思考を断ち切った。
カメラの脇に立つ彼女——柊あかね。陽光をまとったような髪と、明るく柔らかい笑顔。そして、まっすぐな足取りで歩く姿には、確かにスターの風格があった。
その場にいたスタッフや共演者たちが、一瞬で彼女に引き寄せられるように視線を向ける。
飛鳥は、台本を持つ手に、無意識に力が入るのを感じた。
(……この人が、ヒロインか)
噂には聞いていた。“共演者キラー”の異名を持つ、柊あかね。
笑顔と距離感の魔術師。恋愛シーンがなくても、どこかで相手役と熱愛の雰囲気を作ってしまう。不思議な魅力を持った女優。
そして彼女は、挨拶のあとすぐに、遥真のもとへ一直線に向かった。
「久遠さんですよね?今日からよろしくね。実は、ずっと共演したかったの」
飛鳥の中で、何かが微かにざわめいた。
遥真は少し驚いたように目を見開いたが、すぐにいつものような穏やかな笑顔を返す。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
「さっき、久遠さんの出演作を見返してたんだけど……久遠さんのアクション、ほんとにカッコよかった。あんな風に守られたら、私、普通に恋しちゃいそう」
その言葉に、現場スタッフの間に軽い笑いとざわめきが走った。
誰もが、その軽やかで堂々とした“あかねワールド”に取り込まれていく。
——彼女は、現場の空気を読むのがうまい。
それでいて、見せ方を知っている。カメラのないところでの振る舞いも、決して手を抜かない。まるで、それ自体が演技の一部であるかのように。
飛鳥はモニター越しにそのやり取りを見ていた。
遥真が少し照れたように目をそらしながらも、しっかりと対応している。その仕草が、胸に棘のように突き刺さる。
(そうだよね。彼にとって私は“脚本家”。現場の外側にいる存在)
わかっている。
わかっていたつもりだった。
でも、あの手をつないだ時間も。ジャケットを肩にかけてくれた仕草も。
“ただの役作り”とは思えなかった。遥真の言葉には、確かに温度があった。
だからこそ。
柊あかねと遥真が並ぶ姿を見るのが、こんなにも苦しいのだ。
(私は、なにを期待してたんだろう)
あくまで脚本家。ストーリーを描く者。
その物語の中で、彼らは恋をする。自分の書いたセリフで、彼は彼女を見つめ、抱きしめ、そしてキスをする。
そのすべてを“演技”として理解しているはずなのに。
「……私は、なにやってるんだろ」
ふと口をついて出た言葉は、誰にも聞かれなかった。
けれどその声には、彼女自身がまだ気づいていなかった寂しさと、嫉妬と、ほんの少しの未練が、静かに滲んでいた。
朝の空気は緊張感に満ちている。初回のシーン撮りはドラマ全体の空気を決定づける重要なタイミング。脚本家である飛鳥も、現場の隅でモニターを前にしてスタンバイしていた。
機材の音、スタッフの声、照明の調整。すべてが慌ただしく動くなか、彼女の手元には、最終稿の脚本と、あらかじめリハーサル内容をチェックした付箋だらけのノート。準備は万端、のはずだった。
だが、飛鳥の胸には言い知れぬ不安があった。
——この数週間で、遥真との距離が確かに縮まった。
“恋愛レッスン”という名目で過ごした時間。触れ合い、見つめ合い、言葉を交わした日々。
もちろん、すべては役作りのため。演技力を育てるため。
それでも、あの手の温もりや、視線の真っ直ぐさが、今も体に残っていた。
「おはようございます。今日からお世話になります、柊あかねです」
その声が、飛鳥の思考を断ち切った。
カメラの脇に立つ彼女——柊あかね。陽光をまとったような髪と、明るく柔らかい笑顔。そして、まっすぐな足取りで歩く姿には、確かにスターの風格があった。
その場にいたスタッフや共演者たちが、一瞬で彼女に引き寄せられるように視線を向ける。
飛鳥は、台本を持つ手に、無意識に力が入るのを感じた。
(……この人が、ヒロインか)
噂には聞いていた。“共演者キラー”の異名を持つ、柊あかね。
笑顔と距離感の魔術師。恋愛シーンがなくても、どこかで相手役と熱愛の雰囲気を作ってしまう。不思議な魅力を持った女優。
そして彼女は、挨拶のあとすぐに、遥真のもとへ一直線に向かった。
「久遠さんですよね?今日からよろしくね。実は、ずっと共演したかったの」
飛鳥の中で、何かが微かにざわめいた。
遥真は少し驚いたように目を見開いたが、すぐにいつものような穏やかな笑顔を返す。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
「さっき、久遠さんの出演作を見返してたんだけど……久遠さんのアクション、ほんとにカッコよかった。あんな風に守られたら、私、普通に恋しちゃいそう」
その言葉に、現場スタッフの間に軽い笑いとざわめきが走った。
誰もが、その軽やかで堂々とした“あかねワールド”に取り込まれていく。
——彼女は、現場の空気を読むのがうまい。
それでいて、見せ方を知っている。カメラのないところでの振る舞いも、決して手を抜かない。まるで、それ自体が演技の一部であるかのように。
飛鳥はモニター越しにそのやり取りを見ていた。
遥真が少し照れたように目をそらしながらも、しっかりと対応している。その仕草が、胸に棘のように突き刺さる。
(そうだよね。彼にとって私は“脚本家”。現場の外側にいる存在)
わかっている。
わかっていたつもりだった。
でも、あの手をつないだ時間も。ジャケットを肩にかけてくれた仕草も。
“ただの役作り”とは思えなかった。遥真の言葉には、確かに温度があった。
だからこそ。
柊あかねと遥真が並ぶ姿を見るのが、こんなにも苦しいのだ。
(私は、なにを期待してたんだろう)
あくまで脚本家。ストーリーを描く者。
その物語の中で、彼らは恋をする。自分の書いたセリフで、彼は彼女を見つめ、抱きしめ、そしてキスをする。
そのすべてを“演技”として理解しているはずなのに。
「……私は、なにやってるんだろ」
ふと口をついて出た言葉は、誰にも聞かれなかった。
けれどその声には、彼女自身がまだ気づいていなかった寂しさと、嫉妬と、ほんの少しの未練が、静かに滲んでいた。



