現実は、恋愛ドラマよりも甘く~恋を知らない俳優と、恋を書けない脚本家~

夜のスタジオ。

照明が落ち、誰もいない撮影フロアには、機材の静かな呼吸音だけが響いていた。

飛鳥は、胸の奥で何度も確かめながら、その場所へ足を踏み入れていた。

手には、製本された脚本の最終稿。

彼のために、彼と共に作るために、心のすべてを注ぎ込んだ結末だった。

控え室のドアが開く音。

「……飛鳥さん?」

振り返ると、遥真が立っていた。

その顔には迷いのない光が宿っていた。

「正式に、主演続投が決まりました」

穏やかな口調だった。

「そう。おめでとう……じゃないね。ありがとう、かな」

飛鳥が少し照れたように笑う。

静かな空気が流れる。

ふたりだけの、夜のスタジオ。

飛鳥は、手にしていた最終稿を差し出す。

「これが、私の最後の“演出”です」

言葉は静かだったが、指先はわずかに震えていた。

それはきっと、ここまで積み上げてきた時間の重みだった。

遥真は、ゆっくりとその脚本を両手で受け取り——そして、渡された飛鳥の手に、自分の指をそっと絡めた。

「飛鳥さんが描いた恋を、全力で演じ切ります」

その言葉に、飛鳥の呼吸が止まる。

ふと見上げたその目には、確かに映る“本気”があった。

守るための強さだけじゃない。

寄り添うための、やさしい温度だった。

しばらく、ふたりの手は離れなかった。

もう、どちらもひとりじゃなかった。

「一緒に、物語を終わらせよう」

「ううん、終わらせるんじゃない。ここから、新しく始めるの」

脚本の最終ページには、余白が一行、残されていた。

その白い行が、どこまでも続く未来のように感じられた。

遥真はゆっくりと、その最終ページを撫でるように触れた。

「……僕たちの物語も、ここからですね」

飛鳥は頷いた。

「本当の物語は、カメラの外にある。あなたとだから書けたし、あなたとだから向き合えた」

照明の落ちたスタジオの静けさが、逆にふたりを包み込む優しさになっていた。

「今なら、どんな結末でも怖くない。だって……あなたがちゃんと受け止めてくれるって、信じてるから」

遥真は優しく微笑んだ。

「だったら、僕も全力で愛します。あなたが描いたそのすべてを」

その言葉に、飛鳥の胸がきゅっと締めつけられた。

だけど、同時に温かく満たされていた。

あの日、ひとりでは抱えきれなかった「愛」の筆を、今は一緒に持つ人がいる。

脚本には書かれなかったその先を——ふたりで描いていける気がした。