現実は、恋愛ドラマよりも甘く~恋を知らない俳優と、恋を書けない脚本家~

「じゃあ今日は、“壁ドン”から始めてみましょうか」

そう告げたのは飛鳥だった。

会議室の一角。ホワイトボードには「恋愛レッスン2:壁ドン編」と書かれている。手書きの文字がどこかシュールに見えるのは、飛鳥自身がこの状況にまだ完全に慣れていないからだ。

「壁ドンって……アクションとはちょっと違うんですよね?」

遥真が真剣な表情で問いかけてくる。

「うん、勢いじゃなくて、距離感と、視線と、感情の乗せ方が大事。女性が“ドキッ”とするのは、壁に押し付けられたからじゃなくて“あなたの目”にだから」

「なるほど……やってみます」

遥真は壁の前に立ち、飛鳥を見つめた。

「じゃあ、いきます」

「う、うん。……優しく、ね?」

「はい!」

ドンッ——!!

壁がわずかに震えた。

飛鳥は反射的に目をつぶり、背筋がぴんと伸びる。

「ちょっ、ちょっと!今の、ガチの空手モーションじゃない!」

遥真は困ったように頭をかいた。

「すみません……つい体が反応して。壁を打つときの癖で……」

「アクションじゃなくてロマンス!もっと“抑えた力”で!顔ももう少し近づけて、角度も意識して!」

「はい、角度ですね……よし、じゃあ次はこうで……」

二度目の壁ドン。

今度は確かに力は抑えられていたが、まだ“恋愛”というより“アクション”に近い。

三度目、四度目——。

「もう少し、指先の位置を意識して。あまり拳を握らないで……」

「じゃあ、この辺に……こう?」

「うん、そのまま……ちょっと近すぎ——」

言いかけた瞬間、遥真の顔がほんの数センチの距離にまで迫っていた。

彼の手が壁に触れた音と同時に、飛鳥は息を止めた。

(ち、近い……!)

体がこわばる。

壁に追い詰められたような姿勢。視線が絡む。空手で鍛えた遥真の腕が、自分のすぐ横にある。

その太さ、体温、真剣なまなざし——全てが直撃するように近い。

「どうですか、今の角度……」

「……っ、いいけど……ちょっと、もうちょっと離れて……」

「えっ、近すぎました?」

「ううん……そうじゃなくて……」

(なんで私が動揺してるの……これ、仕事なのに)

飛鳥の心は脚本家としての理性と、女としての動揺の狭間で揺れていた。

距離ゼロの空間。

壁を背にして、自分をまっすぐに見つめる若い俳優。

その純粋で、一点の曇りもない瞳が、彼女の心をゆっくりと溶かしていく。

——これはレッスン。

——これは演技のため。

そう言い聞かせても、鼓動はどんどん速くなっていった。

「じゃあ……もう一回、お願いします」

そう言った飛鳥の声は、どこか震えていた。