現実は、恋愛ドラマよりも甘く~恋を知らない俳優と、恋を書けない脚本家~

「……提案なんだけど」

飛鳥は慎重に言葉を選んだ。

「演技にリアリティを出すために、私と“恋愛レッスン”をしませんか?」

沈黙。

久遠遥真は、まっすぐな目で飛鳥を見つめていた。

「……“恋愛レッスン”、ですか?」

「そう。台本上の演技練習だけじゃ、限界があると思って。あなたが“恋愛って何か”を体で感じることができれば、もっと自然に演じられるかもしれないって思ったの」

「つまり……台本に書かれてない、“恋愛っぽいこと”を、僕と飛鳥さんでやってみるってことですか?」

「うん。たとえば、恋人同士がするような仕草。手をつなぐ、名前で呼ぶ、見つめる、寄り添う……そういう台本には書かれていないけれど、恋人になら必ずやるようなシーンを一つずつ、経験してみるの。私も実際に体感できた方が、リアリティのある脚本が書けると思って……恥ずかしながら、プロヂューサーに恋愛描写が薄いと指摘されてしまって……」

遥真は少しだけ顔を赤らめた。

「わかりました。やってみたいです。僕、恋愛ってものがどんな風に心に響くのか、ちゃんと知りたいから」

そのまっすぐな言葉に、飛鳥の胸の奥が小さく揺れた。

——やっぱり、この人はまっすぐすぎる。

ノートパソコンに、飛鳥は「恋愛レッスン:初級編」と書いた。

「それじゃ、早速今日は“恋人と二人きりでいるときの空気”を体験してみましょう。せっかくこのカフェはソファ席だから、ソファに横並びに座って、何も話さずに、ただ“そばにいる”だけでもやってみましょう」

遥真は頷くと、静かにソファへ移動し、飛鳥の隣に腰を下ろした。

しん……とした空気がその場を満たす。

パソコンのファンの音、空調の微かな風切り音——普段は気にも留めない音が、やけに耳に響いた。

横にいる遥真の体温が、距離を越えてじわじわと伝わってくる。

(……なに、この緊張感)

演技のはずなのに、胸が妙にざわつく。

「……この沈黙って、ふつうなんですか?」

遥真が小さく問いかける。

「そうね。相手の存在を意識しながらも、無理に会話しない時間……大事だと思う」

「じゃあ……たとえば、手をつなぐのはどのタイミングなんですか?」

飛鳥は一瞬、息を飲んだ。

「それも……感情の流れに任せて、自然に。無理にやるものじゃないけど、やってみる?」

「……はい」

遥真が、おそるおそる手を差し出す。

飛鳥も、ゆっくりとその手に自分の手を重ねた。

ぴたり、と触れた瞬間、指先からじんわりと温度が伝わってくる。

誰かの手をこうして“意識して”握るのは、飛鳥にとっても久しぶりのことだった。

「……どう?」

「……手が、熱いです」

「それは……緊張してるからじゃない?」

「はい……たぶん、そうです」

飛鳥は思わず微笑んだ。

このぎこちなさ、この初々しさ。台本では絶対に表現しきれない“感情の粒子”が、確かにこの場に満ちていた。

この“レッスン”は、単なる演技指導ではない。

脚本家と俳優——役を通して、互いに“恋愛とは何か”を探しはじめた二人の、小さな一歩だった。