現実は、恋愛ドラマよりも甘く~恋を知らない俳優と、恋を書けない脚本家~

打ち合わせの帰り道。飛鳥はスタッフとの会話を終え、テレビ局のエントランスを抜けたところで、ふと足を止めた。

午後の日差しが落ちかけ、空の色が淡い朱に染まり始めている。

駐車場の奥で、何やら話している声が聞こえた。

「ねえ、久遠くん。今日このあと予定ある? もしなければ……ちょっとだけ、送ってもらえないかな」

振り返らずとも、その声の主が柊あかねだと分かった。

あかねは笑っていた。媚びるわけでもなく、あっけらかんとした親しみを込めて、遥真を見つめていた。

「車、あるなら助かるなあ。もちろん、助手席で静かにしてるから」

「……いえ、大丈夫です。どうぞ」

遥真の声は少し戸惑いながらも、断る様子はなかった。

そのやり取りを、ほんの数秒間、遠くから見ていただけ。

だが飛鳥の胸に、ひどく重たいものが落ちた気がした。

(送迎なんて、ただの移動。何でもない。何でもない……)

そう繰り返しながら、足早にその場を離れた。

まるで何も見なかったかのように。

けれど、その光景はまるで焼きついたかのように、まぶたの裏に残っていた。



夜。部屋の明かりの下、飛鳥はひとり、台本に向かっていた。

机には台本のコピー。お気に入りの赤いボールペン。湯気の立たない、冷めた紅茶。

本来なら、今日の打ち合わせをもとに修正すべき箇所は少ない。

それなのに——ページが進むたび、赤いインクがあちこちに踊っていた。

「ここ、もっと感情の揺れを……」「この台詞、不要?」「もう少し視線のニュアンスで示せないか」

止まらない。

何度も、何度も。

読み返すたびに、ペン先が走る。

気づけば、ページの余白は真っ赤に染まっていた。

「……こんなに直す必要、ないのに」

ぼそりと、ひとりごと。

わかっている。

これは脚本の問題じゃない。

本当は、目の前で見た“ふたり”の光景が、頭から離れないだけ。

助手席に乗り込むあかね。

運転席で微笑む遥真。

彼の隣に誰かがいる。

それが自分ではないというだけで、こんなにも胸がざわつくなんて。

(……違う。これは、仕事。私の仕事は脚本を書くこと。感情をぶつける場所じゃない)

そう言い聞かせるように、またひとつ、台詞の語尾を削った。

それでも、ペンは止まらなかった。

“これは嫉妬だ”と、気づいてしまったら、もう書けなくなりそうで。

だから、無理やり“編集”という形に変えて処理しようとしている。

——まるで、感情を台詞に変換して逃がすように。

赤ペンの跡——それはまるで、自分の未整理な感情の痕跡のようだった。

消したつもりの一文字が、紙の繊維に微かに残るように、

「何でもない」と思い込もうとしたあの光景も、胸の奥では何度も再生されていた。

(柊あかねのこと、嫌いじゃない。むしろ、女優としては尊敬してる。でも、あの人が遥真くんの隣にいると、どうして……)

答えはわかっている。

認めたくないだけで。

この感情に名前を与えてしまったら、もう元には戻れなくなる気がして。

だから、せめて“台詞”にすり替えた。

俳優が演じる役の中に、自分の感情を忍ばせて。

ページをめくる手が止まった。

次のシーンは、男女が夜の公園で語り合う場面。

飛鳥は目を伏せたまま、登場人物の女性キャラクターに、自分の声をそっと預けるようにペンを走らせた。

『——ねえ、君はどうして、そんなに優しくするの?』

『それが演技じゃなかったら、きっと私は……』

書きながら、飛鳥の目に熱が滲んだ。

(バカみたい。こんな風に、自分の想いをキャラクターに言わせて……)

けれど、それしかできなかった。

台本にしか、今の自分の居場所はない気がした。

机の上には、真っ赤な修正の入った台本と、湯気の消えた紅茶。

そして——

曇ったレンズ越しに、じっと赤ペンを見つめる飛鳥の瞳だけが、

今にも崩れそうな心の輪郭を、そっと物語っていた。