現実は、恋愛ドラマよりも甘く~恋を知らない俳優と、恋を書けない脚本家~

——スタジオの午後は、独特の熱気に包まれていた。

次のリハーサル準備が進む中、主演俳優・久遠遥真は、モニター横で台本を持ちつつ、一歩引いた位置から現場の様子を見守っていた。照明、音声、カメラ位置……。すべての動きが彼の背筋をわずかに緊張させる。

そんな彼の背後から、ひらりと揺れるスカートの気配と、甘い香りが近づいてきた。

「ねぇ、遥真くん。次のハグシーンって、どうやる?ちょっと練習しといたほうがいいかなって思って……」

耳元で囁くような声に、彼はびくりと肩を震わせた。

「え、ええっ!?」

振り返ると、そこには今をときめく若手女優であり、“共演者キラー”の異名を持つ、柊あかねが笑顔で立っていた。

彼女は自然な動作で彼の隣に滑り込み、彼の手にある台本に自分の指を添える。その距離、わずか数センチ。

「ね、ここ。“いきなり抱きしめるシーン”。本番で急にやると、びっくりしちゃうでしょ?だったら、先にリハでやっとくのがプロってもんじゃない?」

言葉は柔らかいのに、その瞳はまっすぐ獲物を射抜くようだった。

「そ、そんな……演出次第だし……あ、監督に聞いて……」

「んー。じゃあ、“演出”ってことで、私がお願いする♡」

彼女はくすりと笑いながら、指先で遥真のジャケットの袖口をつまむ。その仕草があまりに自然で、遥真は思わずフリーズする。

——なんだ、これ!?

カメラも照明もないのに、彼女の目線がまるで舞台上のヒロインのようで、遥真の頭は真っ白になる。

「遥真くんってさ、恋愛シーン、あんまり慣れてないよね?」

唐突な指摘に、遥真は反射的に目を伏せた。

「……はい。実は、あんまり……」

あかねは目を丸くして、少しだけ顔を近づける。

「ふぅん……じゃあ、初めての“恋の練習”、付き合ってあげよっか?」

その声は、優しくて、意地悪だった。



休憩時間。控室。

遥真が水を飲みに向かうと、いつのまにか、あかねがその後ろにぴたりとついてきていた。

「ここ、涼しいね。ねえ、隣いい?」

すでに彼が座ったソファの隣に腰を下ろし、あかねは自然に足を組み替える。その動作のたびに、かすかに香水が香る。

彼女は手元の台本を胸元に掲げるように開いた。

「このセリフ、好き。“好きになったら、止まれない”……どう思う?」

遥真は困ったように。

「えっと……リアルに、感じます。感情が……溢れるというか……」

「ふふ。……可愛いこと言うね。真面目な顔で照れながら言うの、ずるいなぁ」

あかねは口元に指を当て、ころころと笑った。

「ねえ、遥真くんって、どんな子がタイプなの?」

「えっ……」

「清楚?それとも、ちょっと甘えん坊な子?」

「そ、そういうのは……あんまり考えたことなくて……」

「じゃあ、私が候補に入ってたら、考えてくれる?」

そう囁く彼女の瞳には、軽さの裏に、ほんの一滴の本気が混じっていた。



スタジオに戻る直前。

「ねえ、さっきのハグシーン、ほんとに練習しない?人いない控室、知ってるよ?」

さらりと放たれるその一言に、遥真は肩をびくりと跳ねさせた。

「ぼ、僕本番でちゃんとやりますから!」

「ふふ……そっか。じゃあ、楽しみにしてる」

あかねは小さくウインクしながら、遥真の背中をそっと押した。

「真面目でピュアな子って、いちばん落としがいあるんだよね……♡」



共演者キラーは、今日も無邪気に獲物をからかう。
だがその胸の奥に、かすかに芽生えたざわつきの正体に、まだ彼女自身も気づいていなかった。