現実は、恋愛ドラマよりも甘く~恋を知らない俳優と、恋を書けない脚本家~

昼下がりの撮影現場。

カメラが一度止まり、次のセットへの転換作業が始まる。

スタッフたちの手が慣れた動きでライトを移動させ、音響チェックの指示が飛ぶなか、飛鳥は少し離れた機材テントの脇で、次のシーンの確認をしていた。

クリップボードに挟んだ脚本。マーカーで色分けされたページの端を指でなぞりながら、何気なく耳を澄ませたそのとき——ふと、耳に入ってきた。

「ねえ、見た?さっきの柊さんと久遠くんの芝居。あれ、ガチでときめいたんだけど」

「わかる〜。なんか自然すぎてさ、ほんとに付き合ってるんじゃないかって思った」

「ていうか、あのふたり、お似合いだよね。美男美女だし、雰囲気も合ってるし」

「うんうん。久遠くんも、あかねちゃんのこと、まんざらでもなさそうだったしね〜」

笑い混じりの声。

悪意はない。ただのスタッフ同士の雑談。現場によくある風景のひとつ。

でも、その何気ない言葉たちが、飛鳥の胸に鋭く突き刺さった。

ほんのささいな会話。

だけど、何かが、ひとつずつ、崩れていくような音がした。

飛鳥は顔を上げて、薄く微笑んでみせた。

「そうですね。たしかに、お似合いかもしれません」

軽く、明るく、表情には動揺を見せない。

脚本家として、現場の士気を下げるわけにはいかない。

プロとしての顔を崩さずに、笑ってやり過ごす。

でも——

心の奥では、確実に何かがひび割れていた。

(……そうだよね。遥真くんと柊あかね、見た目も釣り合ってるし、年も近い。現場の空気にも馴染んでる。お似合いって言われて、何も不思議じゃない)

理屈では理解できる。

納得もできる。

けれど、どうしてこんなにも苦しいのだろう。

胸が、締めつけられるように痛む。

脚本を見つめるふりをしながら、飛鳥は目を閉じた。

この数週間の出来事が、脳裏にフラッシュバックする。

初めて手を取った日の温もり。

視線が交わるたび、わずかに照れて笑った彼の横顔。

壁ドンの練習で、至近距離から感じた息遣い。

そして、プリンが好きだとこっそり告白してくれたときの、あの柔らかい表情——。

「この気持ちに、名前なんてない」

今まで何度も、そう自分に言い聞かせてきた。

ただの役作り。

ただの“仕事仲間”。

一緒に過ごす時間が長いから、ちょっと感情移入してしまっているだけ。

恋なんて、大げさなものじゃない。

そうやって、自分を守ってきた。

けれど——

(……もう、無理だ)

もう、その言い訳がきかなくなっている。

彼の一言に笑って、一歩近づくだけで心が高鳴る。

彼が他の誰かと笑っているのを見ると、胸が締めつけられる。

自分は、彼を「演じる素材」としてしか見ていないはずだった。

でも、それはもう嘘だった。

(私は……久遠遥真が、好きなんだ)

ようやく、その事実を、心の中ではっきりと言葉にした。

戸惑い。

苦しさ。

そして、少しのときめき。

全部まとめて、ようやくこの感情が“恋”に変わったと、はっきりとわかった瞬間だった。

けれど、同時に飛鳥は思う——

(でも私は、脚本家。彼の“恋人役”は、柊あかね。現実の私は、物語の外側の人間)

その境界線は、冷たく、くっきりと、自分の前に横たわっていた。

飛鳥は、そっと脚本を閉じて、立ち上がった。

(それに、昔のこと、忘れたの?……ううん、忘れたわけじゃない。忘れられるわけがない。好きになった分だけ、縛られて。愛された分だけ、壊されて。あんなの、もう二度と……)

背筋を伸ばし、現場へ戻る足取りは、誰の目にも迷いのないプロそのものに見えただろう。

けれど、その胸の奥には——誰にも見せられない本音が、静かに灯り始めていた。