現実は、恋愛ドラマよりも甘く~恋を知らない俳優と、恋を書けない脚本家~

撮影は順調に進んでいた。

主演・久遠遥真とヒロイン・柊あかね。

撮影が始まった恋愛ドラマの中心を担うふたりが、現場で着実に“役”を掴んでいく様子は、誰の目にも明らかだった。

カメラの前で見せる感情の起伏、セリフの間合い、自然な動き。

どれもが洗練されていて、脚本家である飛鳥にとっても、感心せずにはいられないクオリティだった。

「柊さん、今のシーン、完璧です」

「ほんと?よかった〜。でも、遥真くんのリアクションが良かったからだよ」

飛鳥の耳に入ってくる会話は、あくまで和やかで、現場の士気を高める前向きなもの。

だが、その裏で少しずつ、彼女の心は乱れていた。

飛鳥はひとり、機材の間を抜けて控室の裏手へと移動していた。撮影の合間に演出家と確認する箇所があり、モニターを離れたタイミングだった。

ふと、ベンチに座る二人の姿が視界の隅に入る。

柊あかねと久遠遥真——距離が近い。

芝居中ではない。

リハーサルでもない。

ただの“休憩中”。

「遥真くんってさ、好きな人いるの?」

その言葉は、静かな空間に吸い込まれるようにして響いた。

あかねは、誰にも聞かれないように、そして確実に相手の心に届くように、遥真の耳元へそっと顔を寄せた。

彼女の表情は見えなかったが、その雰囲気だけで、飛鳥には“ただの冗談”ではないとわかった。

遥真の肩がわずかに跳ねる。

彼の反応は、一拍遅れて固まるように静止し、顔をわずかに背けた。

言葉が出ない。

目を伏せ、微かに唇が動いた気がしたが、声にはならなかった。

あかねはそんな遥真を見て、くすりと笑った。

「……かわいい〜♡」

その言葉は、甘く、柔らかく、計算された響きを持っていた。

演技じゃない。彼女は、演技以外の“魅せ方”を知っている。

——そして、それを確実に使いこなせる。

飛鳥は、その一部始終を見てしまっていた。

脚本の束を胸に抱えたまま、声も出せずに、その場に立ち尽くした。

(……なに、今の)

直視できない。なのに、目が離せなかった。

彼の頬がわずかに赤らんで見えたのは、気のせいだったのか、それとも——。

わからない。ただひとつ確かなのは、胸の奥が締めつけられるように痛んでいたこと。

(なんで、こんなに動揺してるの……)

すべては想定内のことだったはず。

人気俳優と、人気女優。

同じ作品で恋人役を演じ、撮影現場で仲を深める。

その過程で自然に距離が縮まることも、共演者同士の間でリアルな感情が芽生えることも——決して珍しい話ではない。

でも、自分は。

その「当たり前」を、ただの傍観者として受け止めきれなかった。

演技の練習で見せてくれた彼の表情。

真剣に手を握ってくれたあの感触。

視線が交わるたびに胸の奥が高鳴った、あの時間。

すべてが、“役作り”のためのものだったと、あらためて突きつけられたような気がした。

脚本家としての立場。

作品をつくる側、演じる側——その明確な境界線の上に立つはずだった。

なのに、その境界がぼやけていたのかもしれない。

「……見なきゃよかった」

ぽつりと漏れた言葉。

誰にも届くことのないその声は、どこか空虚で、切なかった。

そして飛鳥は、静かにベンチから目を逸らし、何事もなかったかのように、ゆっくりとモニター前へと戻っていった。

けれどその胸の奥では、消えないざわめきだけが、ひっそりと鳴り続けていた。