深夜一時。東京・世田谷の一角にある築三十年のマンション。その中層階の一室で、美園飛鳥は湯気の立つマグカップを片手に、パソコンの画面を睨みつけていた。
キーボードの上で指を止め、ため息をひとつ。いつもなら、ミステリーの結末を練るこの時間帯が、彼女にとって一番落ち着く瞬間だった。だが、今夜の飛鳥の脳内にあるのは、毒殺も、密室も、動機の矛盾も——まったく浮かばない。
代わりに渦巻いているのは、“恋愛”というジャンルへの圧倒的な違和感だった。
——どうして、私に恋愛ドラマなんか。
その依頼が来たのは一週間前。人気テレビ局・エストテレビの連続ドラマ枠。ゴールデンタイムで放送される新作。その脚本を、美園飛鳥に——と。
「……私、恋なんて、書けないのに」
ぼそりと漏れた声が、誰もいない部屋に虚しく響く。
美園飛鳥、三十三歳。数々の深夜枠ミステリードラマを手がけ、“結末予測不可能な女”の異名をとる新鋭脚本家。その最新作『黒雨の館』は、主演俳優の演技も相まって高視聴率を記録し、一躍メジャー作家の仲間入りを果たした。
にもかかわらず、次に飛び込んできたのが“恋愛ドラマ”の脚本依頼——。
そのことを告げられた瞬間、思わず「ご冗談を」と言いかけた。
が。
相手は、エストテレビの名物プロデューサー・立花和也。飛鳥の作品をずっと追っていたという熱のこもった視線と、「あなたにしかできない恋を描いてほしいんです」という口説き文句に、断る余地を失った。
今日の打ち合わせでも、立花のテンションは高かった。
「僕ね、美園さんの『黒雨の館』、リアルタイムで観てたんですよ。最終回のあの伏線回収、鳥肌立ちました。犯人の手記が——ね?あれで涙出ましたよ。だけど……」
「……はい」
「恋愛のパートがあっさりしすぎていた気がして……。もうちょっと頑張れるんじゃないかなって」
柔らかな口調だったが、それは確かに“指摘”だった。
「脚本、全体としては素晴らしかったんです。だからこそ、高視聴率を出せたわけですし。ただ、登場人物同士の感情の絡みというか……視聴者に『ときめき』を届けるって意味では、もう少し味付けが欲しかったかなと」
「……ときめき、ですか」
「そう。視聴者って意外と、ストーリーとかよりも、恋の駆け引きに惹かれるんですよ」
飛鳥は笑顔を作った。作ったが、胃の奥がざわりと波打つ感覚をどうにも抑えきれなかった。
脚本家としてのプライドなのか、女としての何かが突かれたのか、自分でもよくわからなかった。ただ、確実に心のどこかがざわついていた。
打ち合わせを終え、夜の街を歩きながら、飛鳥は思った。
(私は、本当に“恋”が書けないんだな……)
気づいていた、恋愛描写を避けてきたことは。
思い返せば、デビュー作のときから、恋愛描写を極力避けるようにしてきていた。そして、作品がヒットするにつれ、より複雑な事件構造や論理的な展開が求められ、感情描写はどんどん削ぎ落とされていった。
そうしていつしか、恋愛そのものを、自分の執筆領域から切り離していった。
いや、違う。
——本当は、“恋”が怖かったのだ。
傷つくことも、思いを伝えることも。
それを思い知らされたのは、あの男と別れた日だった——。
携帯が震える。
「……あ、はい。はい……わかりました。企画書、今夜中に目を通します」
打ち合わせ相手だった立花からのフォローアップの連絡だった。
「それと、今度の主演候補、メールで送っておきました。もしよかったら、イメージの参考に」
そう言って電話は切れた。
——恋を、書かずに済ませられない場所に立っている。
飛鳥は深くため息をついた。
キーボードの上で指を止め、ため息をひとつ。いつもなら、ミステリーの結末を練るこの時間帯が、彼女にとって一番落ち着く瞬間だった。だが、今夜の飛鳥の脳内にあるのは、毒殺も、密室も、動機の矛盾も——まったく浮かばない。
代わりに渦巻いているのは、“恋愛”というジャンルへの圧倒的な違和感だった。
——どうして、私に恋愛ドラマなんか。
その依頼が来たのは一週間前。人気テレビ局・エストテレビの連続ドラマ枠。ゴールデンタイムで放送される新作。その脚本を、美園飛鳥に——と。
「……私、恋なんて、書けないのに」
ぼそりと漏れた声が、誰もいない部屋に虚しく響く。
美園飛鳥、三十三歳。数々の深夜枠ミステリードラマを手がけ、“結末予測不可能な女”の異名をとる新鋭脚本家。その最新作『黒雨の館』は、主演俳優の演技も相まって高視聴率を記録し、一躍メジャー作家の仲間入りを果たした。
にもかかわらず、次に飛び込んできたのが“恋愛ドラマ”の脚本依頼——。
そのことを告げられた瞬間、思わず「ご冗談を」と言いかけた。
が。
相手は、エストテレビの名物プロデューサー・立花和也。飛鳥の作品をずっと追っていたという熱のこもった視線と、「あなたにしかできない恋を描いてほしいんです」という口説き文句に、断る余地を失った。
今日の打ち合わせでも、立花のテンションは高かった。
「僕ね、美園さんの『黒雨の館』、リアルタイムで観てたんですよ。最終回のあの伏線回収、鳥肌立ちました。犯人の手記が——ね?あれで涙出ましたよ。だけど……」
「……はい」
「恋愛のパートがあっさりしすぎていた気がして……。もうちょっと頑張れるんじゃないかなって」
柔らかな口調だったが、それは確かに“指摘”だった。
「脚本、全体としては素晴らしかったんです。だからこそ、高視聴率を出せたわけですし。ただ、登場人物同士の感情の絡みというか……視聴者に『ときめき』を届けるって意味では、もう少し味付けが欲しかったかなと」
「……ときめき、ですか」
「そう。視聴者って意外と、ストーリーとかよりも、恋の駆け引きに惹かれるんですよ」
飛鳥は笑顔を作った。作ったが、胃の奥がざわりと波打つ感覚をどうにも抑えきれなかった。
脚本家としてのプライドなのか、女としての何かが突かれたのか、自分でもよくわからなかった。ただ、確実に心のどこかがざわついていた。
打ち合わせを終え、夜の街を歩きながら、飛鳥は思った。
(私は、本当に“恋”が書けないんだな……)
気づいていた、恋愛描写を避けてきたことは。
思い返せば、デビュー作のときから、恋愛描写を極力避けるようにしてきていた。そして、作品がヒットするにつれ、より複雑な事件構造や論理的な展開が求められ、感情描写はどんどん削ぎ落とされていった。
そうしていつしか、恋愛そのものを、自分の執筆領域から切り離していった。
いや、違う。
——本当は、“恋”が怖かったのだ。
傷つくことも、思いを伝えることも。
それを思い知らされたのは、あの男と別れた日だった——。
携帯が震える。
「……あ、はい。はい……わかりました。企画書、今夜中に目を通します」
打ち合わせ相手だった立花からのフォローアップの連絡だった。
「それと、今度の主演候補、メールで送っておきました。もしよかったら、イメージの参考に」
そう言って電話は切れた。
——恋を、書かずに済ませられない場所に立っている。
飛鳥は深くため息をついた。



