第六章 過去へ還る選択―
椿がいなくなってから、世界は静かだった。
まるで、はじめからその少女が存在しなかったかのように。
教室の机は等間隔に並べられ、窓から差し込む陽光が黒板を斜めに照らす。日常はいつも通りの顔で続いていた。先生は出席を取り、誰かの名前を飛ばすことはなかったし、クラスメイトも笑い合いながら日々を過ごしていた。家に帰っても、椿の話をする者はいなかった。──いや、誰も、彼女の名前すら知らなかったのだ。
あの優しい声も。
揺れる黒髪も。
夏の夕暮れに見せた、あの涙まじりの笑顔さえも──。
この世界では、椿という存在は“最初からいなかった”ことにされていた。
けれど、僕だけは──覚えていた。
あの星の瞬き。冷たいけれど、なぜか心地よかった手のぬくもり。
世界の全てが否定しても、僕の記憶だけは、確かにそれらを抱き締めていた。
◆
「……椿を、取り戻したい」
そう強く願ったのは、7月16日のことだった。
僕は九条廉司の遺したノート──いや、“禁書”と呼ぶべきかもしれないその記録の、最後のページを開いた。
そこには、達筆ながらも震えるような文字で、こう記されていた。
「もしも時間の因果を逆流させるなら──君は、自分の存在をかけた決断を迫られる」
「未来を変えるには、自分の未来を失う覚悟がいる」
ページをめくるたび、心臓が軋むように痛んだ。
──タイムリープ。
それはただ過去へ戻るだけの行為ではない。自己の時間軸を歪め、同時に“今在る自分”を崩壊させる可能性すら秘めた危険な選択だった。
記憶と存在がずれれば、自己は自己でなくなる。まるで鏡の中の像が割れるように、精神が崩れてしまうかもしれない。
それでも、僕は、迷わなかった。
7月18日。
──あの日に、もう一度戻る。
椿を、この手で救うために。
◆
夕暮れの校舎裏。
誰も近づかない古びた時計塔が、時間の隙間にひっそりと佇んでいた。
塔の内部には、“歪んだ歯車”が埋め込まれていた。かつて時を止めたとされる、謎に包まれた装置──それがノートに記された“鍵”だった。
僕はポケットからノートを取り出し、震える手で最終ページをなぞった。
「椿。もう一度、君に会いに行くよ」
その言葉と同時に、世界が軋んだ。
歪んだ歯車が重低音を鳴らし、全身を切り裂くような耳鳴りが響き渡る。
視界が弾けるように暗転し、あらゆる感覚が断ち切られた。
◆
──そして目を開けたとき、僕は見慣れた教室にいた。
天井の蛍光灯の微かな唸り。窓の外では蝉が鳴き、遠くで運動部の掛け声が聞こえる。
教卓の上には開いたプリント、黒板にはまだ書きかけの数式。
そして──窓際、三番目の席。
「……椿」
彼女は、いた。
そこに、ちゃんと、存在していた。
髪を耳にかけながら、うっすらと微笑んで──まるで、何も知らないまま。
僕は思わず立ち上がっていた。
「え……どうしたの? そんな顔して」
椿が、不思議そうに首を傾げた。
──記憶は、まだ失われていない。
まだ、間に合う。
だが、それは始まりだった。
タイムリープによって、この世界は“二つの未来”を抱えてしまったのだ。
一つは、椿がこの世から消える未来。
もう一つは、彼女が生き残る代わりに、“僕が存在しなかったことになる”未来。
どちらも、救いなどなかった。
◆
屋上。
夕陽が校舎の壁を赤く染め、遠く街のビルの影が静かに伸びていた。
「椿。君に話さなきゃいけないことがあるんだ」
風が、彼女の髪を揺らす。
「君は、もともとこの世界に存在しないはずだった。でも──僕が、君を“必要とした”から、君は現れてしまったんだ」
椿は目を見開き、声を失った。
「……なに、それ……」
「このままだと、世界は修正しようとする。君を消すか、僕を消すか。そのどちらかしかないんだ」
僕は、静かに彼女の肩に手を置いた。
「もし、僕がこの世界から消えれば、君はこの世界の“本物”になれる。皆の記憶にも残る。だから──僕は、そうする」
「やだ……」
椿が、小さく呟いた。
「やだよ……やだ……! そんなの、違うよ……!」
気づけば、彼女は僕の胸に縋りついていた。
涙が頬を伝い、僕の制服にぽつり、ぽつりと染みを作る。
「君がいたから、私は……私は生きてこれたのに……! 君がいなきゃ、私は意味なんて見つけられなかったのに!」
その声は、喉の奥から絞り出すようだった。
──選べない。
どちらの未来も、残酷すぎた。
それでも、選ばなければならなかった。
それが、この世界の“修正力”。存在の矛盾を許さない、無慈悲な摂理だった。
僕はそっと椿の髪に触れた。
「ありがとう。椿。君に会えて、本当に幸せだった」
「……っ」
「でも、君が生きていける世界なら──きっと、きっとその先に意味はある。そう信じてる」
椿は、顔を上げた。
目には涙。けれど、強い意志が宿っていた。
「……忘れない。たとえ全部が消えても、心だけは……絶対に、君のことを覚えてる」
その言葉を最後に、僕の意識は、静かにほどけていった。
世界が、書き換わっていく。
僕という存在のすべてを、誰も知らない未来へ──
──第六章 了
椿がいなくなってから、世界は静かだった。
まるで、はじめからその少女が存在しなかったかのように。
教室の机は等間隔に並べられ、窓から差し込む陽光が黒板を斜めに照らす。日常はいつも通りの顔で続いていた。先生は出席を取り、誰かの名前を飛ばすことはなかったし、クラスメイトも笑い合いながら日々を過ごしていた。家に帰っても、椿の話をする者はいなかった。──いや、誰も、彼女の名前すら知らなかったのだ。
あの優しい声も。
揺れる黒髪も。
夏の夕暮れに見せた、あの涙まじりの笑顔さえも──。
この世界では、椿という存在は“最初からいなかった”ことにされていた。
けれど、僕だけは──覚えていた。
あの星の瞬き。冷たいけれど、なぜか心地よかった手のぬくもり。
世界の全てが否定しても、僕の記憶だけは、確かにそれらを抱き締めていた。
◆
「……椿を、取り戻したい」
そう強く願ったのは、7月16日のことだった。
僕は九条廉司の遺したノート──いや、“禁書”と呼ぶべきかもしれないその記録の、最後のページを開いた。
そこには、達筆ながらも震えるような文字で、こう記されていた。
「もしも時間の因果を逆流させるなら──君は、自分の存在をかけた決断を迫られる」
「未来を変えるには、自分の未来を失う覚悟がいる」
ページをめくるたび、心臓が軋むように痛んだ。
──タイムリープ。
それはただ過去へ戻るだけの行為ではない。自己の時間軸を歪め、同時に“今在る自分”を崩壊させる可能性すら秘めた危険な選択だった。
記憶と存在がずれれば、自己は自己でなくなる。まるで鏡の中の像が割れるように、精神が崩れてしまうかもしれない。
それでも、僕は、迷わなかった。
7月18日。
──あの日に、もう一度戻る。
椿を、この手で救うために。
◆
夕暮れの校舎裏。
誰も近づかない古びた時計塔が、時間の隙間にひっそりと佇んでいた。
塔の内部には、“歪んだ歯車”が埋め込まれていた。かつて時を止めたとされる、謎に包まれた装置──それがノートに記された“鍵”だった。
僕はポケットからノートを取り出し、震える手で最終ページをなぞった。
「椿。もう一度、君に会いに行くよ」
その言葉と同時に、世界が軋んだ。
歪んだ歯車が重低音を鳴らし、全身を切り裂くような耳鳴りが響き渡る。
視界が弾けるように暗転し、あらゆる感覚が断ち切られた。
◆
──そして目を開けたとき、僕は見慣れた教室にいた。
天井の蛍光灯の微かな唸り。窓の外では蝉が鳴き、遠くで運動部の掛け声が聞こえる。
教卓の上には開いたプリント、黒板にはまだ書きかけの数式。
そして──窓際、三番目の席。
「……椿」
彼女は、いた。
そこに、ちゃんと、存在していた。
髪を耳にかけながら、うっすらと微笑んで──まるで、何も知らないまま。
僕は思わず立ち上がっていた。
「え……どうしたの? そんな顔して」
椿が、不思議そうに首を傾げた。
──記憶は、まだ失われていない。
まだ、間に合う。
だが、それは始まりだった。
タイムリープによって、この世界は“二つの未来”を抱えてしまったのだ。
一つは、椿がこの世から消える未来。
もう一つは、彼女が生き残る代わりに、“僕が存在しなかったことになる”未来。
どちらも、救いなどなかった。
◆
屋上。
夕陽が校舎の壁を赤く染め、遠く街のビルの影が静かに伸びていた。
「椿。君に話さなきゃいけないことがあるんだ」
風が、彼女の髪を揺らす。
「君は、もともとこの世界に存在しないはずだった。でも──僕が、君を“必要とした”から、君は現れてしまったんだ」
椿は目を見開き、声を失った。
「……なに、それ……」
「このままだと、世界は修正しようとする。君を消すか、僕を消すか。そのどちらかしかないんだ」
僕は、静かに彼女の肩に手を置いた。
「もし、僕がこの世界から消えれば、君はこの世界の“本物”になれる。皆の記憶にも残る。だから──僕は、そうする」
「やだ……」
椿が、小さく呟いた。
「やだよ……やだ……! そんなの、違うよ……!」
気づけば、彼女は僕の胸に縋りついていた。
涙が頬を伝い、僕の制服にぽつり、ぽつりと染みを作る。
「君がいたから、私は……私は生きてこれたのに……! 君がいなきゃ、私は意味なんて見つけられなかったのに!」
その声は、喉の奥から絞り出すようだった。
──選べない。
どちらの未来も、残酷すぎた。
それでも、選ばなければならなかった。
それが、この世界の“修正力”。存在の矛盾を許さない、無慈悲な摂理だった。
僕はそっと椿の髪に触れた。
「ありがとう。椿。君に会えて、本当に幸せだった」
「……っ」
「でも、君が生きていける世界なら──きっと、きっとその先に意味はある。そう信じてる」
椿は、顔を上げた。
目には涙。けれど、強い意志が宿っていた。
「……忘れない。たとえ全部が消えても、心だけは……絶対に、君のことを覚えてる」
その言葉を最後に、僕の意識は、静かにほどけていった。
世界が、書き換わっていく。
僕という存在のすべてを、誰も知らない未来へ──
──第六章 了



