第六章 過去へ還る選択―
 椿がいなくなってから、世界は静かだった。
 まるで、はじめからその少女が存在しなかったかのように。

 教室の机は等間隔に並べられ、窓から差し込む陽光が黒板を斜めに照らす。日常はいつも通りの顔で続いていた。先生は出席を取り、誰かの名前を飛ばすことはなかったし、クラスメイトも笑い合いながら日々を過ごしていた。家に帰っても、椿の話をする者はいなかった。──いや、誰も、彼女の名前すら知らなかったのだ。

 あの優しい声も。
 揺れる黒髪も。
 夏の夕暮れに見せた、あの涙まじりの笑顔さえも──。

 この世界では、椿という存在は“最初からいなかった”ことにされていた。

 けれど、僕だけは──覚えていた。
 あの星の瞬き。冷たいけれど、なぜか心地よかった手のぬくもり。
 世界の全てが否定しても、僕の記憶だけは、確かにそれらを抱き締めていた。



 「……椿を、取り戻したい」

 そう強く願ったのは、7月16日のことだった。
 僕は九条廉司の遺したノート──いや、“禁書”と呼ぶべきかもしれないその記録の、最後のページを開いた。

 そこには、達筆ながらも震えるような文字で、こう記されていた。

「もしも時間の因果を逆流させるなら──君は、自分の存在をかけた決断を迫られる」
「未来を変えるには、自分の未来を失う覚悟がいる」
 ページをめくるたび、心臓が軋むように痛んだ。
 ──タイムリープ。
 それはただ過去へ戻るだけの行為ではない。自己の時間軸を歪め、同時に“今在る自分”を崩壊させる可能性すら秘めた危険な選択だった。
 記憶と存在がずれれば、自己は自己でなくなる。まるで鏡の中の像が割れるように、精神が崩れてしまうかもしれない。

 それでも、僕は、迷わなかった。

 7月18日。
 ──あの日に、もう一度戻る。
 椿を、この手で救うために。



 夕暮れの校舎裏。
 誰も近づかない古びた時計塔が、時間の隙間にひっそりと佇んでいた。
 塔の内部には、“歪んだ歯車”が埋め込まれていた。かつて時を止めたとされる、謎に包まれた装置──それがノートに記された“鍵”だった。

 僕はポケットからノートを取り出し、震える手で最終ページをなぞった。
 「椿。もう一度、君に会いに行くよ」

 その言葉と同時に、世界が軋んだ。
 歪んだ歯車が重低音を鳴らし、全身を切り裂くような耳鳴りが響き渡る。

 視界が弾けるように暗転し、あらゆる感覚が断ち切られた。



 ──そして目を開けたとき、僕は見慣れた教室にいた。

 天井の蛍光灯の微かな唸り。窓の外では蝉が鳴き、遠くで運動部の掛け声が聞こえる。
 教卓の上には開いたプリント、黒板にはまだ書きかけの数式。
 そして──窓際、三番目の席。

 「……椿」

 彼女は、いた。
 そこに、ちゃんと、存在していた。
 髪を耳にかけながら、うっすらと微笑んで──まるで、何も知らないまま。

 僕は思わず立ち上がっていた。
 「え……どうしたの? そんな顔して」

 椿が、不思議そうに首を傾げた。
 ──記憶は、まだ失われていない。
 まだ、間に合う。

 だが、それは始まりだった。
 タイムリープによって、この世界は“二つの未来”を抱えてしまったのだ。

 一つは、椿がこの世から消える未来。
 もう一つは、彼女が生き残る代わりに、“僕が存在しなかったことになる”未来。

 どちらも、救いなどなかった。



 屋上。
 夕陽が校舎の壁を赤く染め、遠く街のビルの影が静かに伸びていた。

 「椿。君に話さなきゃいけないことがあるんだ」

 風が、彼女の髪を揺らす。
 「君は、もともとこの世界に存在しないはずだった。でも──僕が、君を“必要とした”から、君は現れてしまったんだ」

 椿は目を見開き、声を失った。
 「……なに、それ……」

 「このままだと、世界は修正しようとする。君を消すか、僕を消すか。そのどちらかしかないんだ」

 僕は、静かに彼女の肩に手を置いた。

 「もし、僕がこの世界から消えれば、君はこの世界の“本物”になれる。皆の記憶にも残る。だから──僕は、そうする」

 「やだ……」

 椿が、小さく呟いた。

 「やだよ……やだ……! そんなの、違うよ……!」

 気づけば、彼女は僕の胸に縋りついていた。
 涙が頬を伝い、僕の制服にぽつり、ぽつりと染みを作る。

 「君がいたから、私は……私は生きてこれたのに……! 君がいなきゃ、私は意味なんて見つけられなかったのに!」

 その声は、喉の奥から絞り出すようだった。
 ──選べない。
 どちらの未来も、残酷すぎた。

 それでも、選ばなければならなかった。
 それが、この世界の“修正力”。存在の矛盾を許さない、無慈悲な摂理だった。

 僕はそっと椿の髪に触れた。

 「ありがとう。椿。君に会えて、本当に幸せだった」

 「……っ」

 「でも、君が生きていける世界なら──きっと、きっとその先に意味はある。そう信じてる」

 椿は、顔を上げた。
 目には涙。けれど、強い意志が宿っていた。

 「……忘れない。たとえ全部が消えても、心だけは……絶対に、君のことを覚えてる」

 その言葉を最後に、僕の意識は、静かにほどけていった。

 世界が、書き換わっていく。
 僕という存在のすべてを、誰も知らない未来へ──

──第六章 了