第4章:未来の記憶が見える日―
──知らない天井だった。
薄い灰色の天井に、人工の光がぼんやりと広がっている。蛍光灯の明滅が、音もなく視界に沁みこんできた。
けれど、それは比喩ではなかった。本当に、見たことのない天井だった。
部屋の壁は白く、どこか無機質で、匂いは……薬品のようだった。鼻の奥がツンとするような、あの特有の消毒臭。
右手の甲には点滴の針。左の胸元には心電図の電極。
電子音が、等間隔で鳴っている。
──病院だ。
ゆっくりと頭を起こしながら、僕は自分の状況を把握しようと努めた。だが、その途端、頭の奥に重たい痛みが走る。
視界がにじみ、思考が混線する。まるで、脳の中に霧がかかったみたいだった。
「……僕は……どうして……ここに……」
言葉にして初めて、自分の声がひどく乾いていることに気づいた。唇は割れ、喉の奥が砂を呑んだようにヒリついている。
◆
医師の話によれば、僕は駅の階段で倒れ、後頭部を強く打ったらしい。意識を失ったまま、二日間も眠っていたのだという。
記憶に混乱はあるか──そう問われ、僕は曖昧にうなずいた。
本当は、混乱どころではなかった。
記憶はある。いや、“あるような気がしている”。だが、それがいつのものだったのか、現実だったのか、夢だったのかさえわからない。
一方で、断片的に思い出すことがある。思い出してはいけないはずの、未来の景色。
──椿の声。
「私は、“明日”を持たない存在だから」
その言葉だけが、妙に鮮明だった。
まるで、昨日耳元で囁かれたかのように。
……あれは夢じゃない。
そう確信したとき、冷たい汗が背筋を伝った。
◆
退院した夜、僕は自室のカーテンを開け、窓の外に視線を投げた。
夏の夜空。星がいくつか、かすかにまたたいている。
なのに、それがやけに遠く感じた。現実感がなかった。
スマートフォンを手に取り、ロックを解除する。すると、通知の欄に未読のメッセージが一件だけ浮かんでいた。
差出人名は表示されていなかった。
ただ、それは明らかに異質だった。
>「7月18日、選択の日」
>「その日、すべてが決まる」
──7月18日。
その日付を見た瞬間、心臓が大きく跳ねた。
椿の手帳に、何度も、何度も記されていたあの日付。
そして、画面右上に表示された今日の日付──“7月14日”。
あと、四日。
終わりが、迫っていた。
◆
翌日。
僕は学校の図書室にいた。
午前の授業を早退し、理由もなくその場所に引き寄せられるように足を運んでいた。
静かな空間。紙の匂い。柔らかな木の棚。
そのすべてが、どこか遠い昔の記憶のように、懐かしく胸を締めつけた。
ふと、棚の隅に違和感を覚えた。そこだけ、空気の密度が違うような……目に見えないひずみのようなものがあった。
手を伸ばし、ふれた瞬間──世界が、揺らいだ。
景色が切り替わる。
そこは教室だった。僕の隣には、笑顔の椿がいた。
だが次の瞬間、誰かが倒れ、僕はその隣で泣き叫んでいた。
「やめろ……やめてくれっ……!!」
現実に戻ったとき、僕は図書室の床に座り込んでいた。
息は荒く、手のひらが汗で濡れている。
心臓が、壊れたように脈打っていた。
──それは、“未来の記憶”だった。
「……見えてしまったか」
突然、背後から声がした。
本棚の陰に、一人の男が立っていた。
──白衣の男。
夢の中で、椿と一緒にいたあの人物だった。
「……誰だ、君は」
「九条廉司。時間物理の研究者だった。今は、ただの“世界の傍観者”さ」
九条は、棚の奥から一冊のファイルを取り出し、それを僕の前に差し出した。
ページの端が黄ばみ、何度も読み返された形跡のあるその資料には──見覚えのある字が並んでいた。
「……これは、椿の記録……?」
「正確には、未来で彼女が記した記録の写しだ。君はもう、“時間の境界”を越え始めている。過去と未来の線引きが曖昧になり、やがて記憶と現実の区別がつかなくなる」
「……今の、教室の光景も……」
「そう。未来の断片だ。そして、問題なのは──その記憶に支配されてしまうと、自分で選択する力を失うということだ」
「選ばされる未来になる、ってことか」
九条は静かに頷いた。
「椿は……僕の“未来”で、何を知った?」
「君の罪を、だ。……正確には、“君が未来に犯すはずだった罪”を」
「……罪?」
九条の瞳が、どこか悲しげに揺れる。
「7月18日、君は“選ばなくてはならない”。その選択は、誰かの存在を世界から消す。──誰かが残り、誰かが消える」
「それが、この世界の修正力……?」
「時間は、歪みを許さない。未来を変えようとすれば、必ずどこかで均衡が崩れる。代償として“存在”が吸収される」
「……それが、椿なのか」
その問いに、九条は目を伏せた。
「彼女は、“未来を変えるための代償”として生まれた存在だ。言ってしまえば、“存在していなかったことにされる”可能性が、最も高い」
──僕が、未来を変えようとすればするほど。
椿の存在は、消えやすくなる。
──最初から、そういう運命だった。
「……ふざけるな」
僕は、ぎり、と奥歯を噛みしめた。足元がふらつきながらも、立ち上がる。
心の奥で、何かがはっきりと決まっていた。
「そんな運命、書き換えてやる。誰も、消させない」
九条は、ふっと笑みを浮かべた。
それは、どこか安心したような、ほっとした笑顔だった。
「……その言葉を待っていたよ。椿も、きっとそう言ったはずだ。──君なら、信じられるって」
彼は記録ファイルを僕に渡し、そのまま姿を消した。
まるで、最初から存在しなかったかのように。
◆
夜の部屋。
デスクの上には、椿の記録。
その最終ページに、こんな仮説が記されていた。
>「もし“未来の記憶”を完全に統合できれば、選択の瞬間、過去と未来の狭間で“二つの命”を救う唯一のルートが開く」
>「ただし、それには時間と記憶を越えた“共鳴”が必要となる。共鳴条件:想いの一致」
想いの一致。
──僕と椿が、同じ未来を望むこと。
そのために、僕は彼女の“本当の気持ち”を知らなければならない。
そして、彼女があの日最後に僕に残した言葉を、再び思い出す。
「どんな決断をしても、私はきっと——あなたを、好きになる」
あと、三日。
世界の終わりと、もうひとつの未来が交差する日が、刻一刻と近づいていた。
——第4章:了
──知らない天井だった。
薄い灰色の天井に、人工の光がぼんやりと広がっている。蛍光灯の明滅が、音もなく視界に沁みこんできた。
けれど、それは比喩ではなかった。本当に、見たことのない天井だった。
部屋の壁は白く、どこか無機質で、匂いは……薬品のようだった。鼻の奥がツンとするような、あの特有の消毒臭。
右手の甲には点滴の針。左の胸元には心電図の電極。
電子音が、等間隔で鳴っている。
──病院だ。
ゆっくりと頭を起こしながら、僕は自分の状況を把握しようと努めた。だが、その途端、頭の奥に重たい痛みが走る。
視界がにじみ、思考が混線する。まるで、脳の中に霧がかかったみたいだった。
「……僕は……どうして……ここに……」
言葉にして初めて、自分の声がひどく乾いていることに気づいた。唇は割れ、喉の奥が砂を呑んだようにヒリついている。
◆
医師の話によれば、僕は駅の階段で倒れ、後頭部を強く打ったらしい。意識を失ったまま、二日間も眠っていたのだという。
記憶に混乱はあるか──そう問われ、僕は曖昧にうなずいた。
本当は、混乱どころではなかった。
記憶はある。いや、“あるような気がしている”。だが、それがいつのものだったのか、現実だったのか、夢だったのかさえわからない。
一方で、断片的に思い出すことがある。思い出してはいけないはずの、未来の景色。
──椿の声。
「私は、“明日”を持たない存在だから」
その言葉だけが、妙に鮮明だった。
まるで、昨日耳元で囁かれたかのように。
……あれは夢じゃない。
そう確信したとき、冷たい汗が背筋を伝った。
◆
退院した夜、僕は自室のカーテンを開け、窓の外に視線を投げた。
夏の夜空。星がいくつか、かすかにまたたいている。
なのに、それがやけに遠く感じた。現実感がなかった。
スマートフォンを手に取り、ロックを解除する。すると、通知の欄に未読のメッセージが一件だけ浮かんでいた。
差出人名は表示されていなかった。
ただ、それは明らかに異質だった。
>「7月18日、選択の日」
>「その日、すべてが決まる」
──7月18日。
その日付を見た瞬間、心臓が大きく跳ねた。
椿の手帳に、何度も、何度も記されていたあの日付。
そして、画面右上に表示された今日の日付──“7月14日”。
あと、四日。
終わりが、迫っていた。
◆
翌日。
僕は学校の図書室にいた。
午前の授業を早退し、理由もなくその場所に引き寄せられるように足を運んでいた。
静かな空間。紙の匂い。柔らかな木の棚。
そのすべてが、どこか遠い昔の記憶のように、懐かしく胸を締めつけた。
ふと、棚の隅に違和感を覚えた。そこだけ、空気の密度が違うような……目に見えないひずみのようなものがあった。
手を伸ばし、ふれた瞬間──世界が、揺らいだ。
景色が切り替わる。
そこは教室だった。僕の隣には、笑顔の椿がいた。
だが次の瞬間、誰かが倒れ、僕はその隣で泣き叫んでいた。
「やめろ……やめてくれっ……!!」
現実に戻ったとき、僕は図書室の床に座り込んでいた。
息は荒く、手のひらが汗で濡れている。
心臓が、壊れたように脈打っていた。
──それは、“未来の記憶”だった。
「……見えてしまったか」
突然、背後から声がした。
本棚の陰に、一人の男が立っていた。
──白衣の男。
夢の中で、椿と一緒にいたあの人物だった。
「……誰だ、君は」
「九条廉司。時間物理の研究者だった。今は、ただの“世界の傍観者”さ」
九条は、棚の奥から一冊のファイルを取り出し、それを僕の前に差し出した。
ページの端が黄ばみ、何度も読み返された形跡のあるその資料には──見覚えのある字が並んでいた。
「……これは、椿の記録……?」
「正確には、未来で彼女が記した記録の写しだ。君はもう、“時間の境界”を越え始めている。過去と未来の線引きが曖昧になり、やがて記憶と現実の区別がつかなくなる」
「……今の、教室の光景も……」
「そう。未来の断片だ。そして、問題なのは──その記憶に支配されてしまうと、自分で選択する力を失うということだ」
「選ばされる未来になる、ってことか」
九条は静かに頷いた。
「椿は……僕の“未来”で、何を知った?」
「君の罪を、だ。……正確には、“君が未来に犯すはずだった罪”を」
「……罪?」
九条の瞳が、どこか悲しげに揺れる。
「7月18日、君は“選ばなくてはならない”。その選択は、誰かの存在を世界から消す。──誰かが残り、誰かが消える」
「それが、この世界の修正力……?」
「時間は、歪みを許さない。未来を変えようとすれば、必ずどこかで均衡が崩れる。代償として“存在”が吸収される」
「……それが、椿なのか」
その問いに、九条は目を伏せた。
「彼女は、“未来を変えるための代償”として生まれた存在だ。言ってしまえば、“存在していなかったことにされる”可能性が、最も高い」
──僕が、未来を変えようとすればするほど。
椿の存在は、消えやすくなる。
──最初から、そういう運命だった。
「……ふざけるな」
僕は、ぎり、と奥歯を噛みしめた。足元がふらつきながらも、立ち上がる。
心の奥で、何かがはっきりと決まっていた。
「そんな運命、書き換えてやる。誰も、消させない」
九条は、ふっと笑みを浮かべた。
それは、どこか安心したような、ほっとした笑顔だった。
「……その言葉を待っていたよ。椿も、きっとそう言ったはずだ。──君なら、信じられるって」
彼は記録ファイルを僕に渡し、そのまま姿を消した。
まるで、最初から存在しなかったかのように。
◆
夜の部屋。
デスクの上には、椿の記録。
その最終ページに、こんな仮説が記されていた。
>「もし“未来の記憶”を完全に統合できれば、選択の瞬間、過去と未来の狭間で“二つの命”を救う唯一のルートが開く」
>「ただし、それには時間と記憶を越えた“共鳴”が必要となる。共鳴条件:想いの一致」
想いの一致。
──僕と椿が、同じ未来を望むこと。
そのために、僕は彼女の“本当の気持ち”を知らなければならない。
そして、彼女があの日最後に僕に残した言葉を、再び思い出す。
「どんな決断をしても、私はきっと——あなたを、好きになる」
あと、三日。
世界の終わりと、もうひとつの未来が交差する日が、刻一刻と近づいていた。
——第4章:了



