第三章:明日が存在しない日
空が、曇っていた。
カーテン越しに見える灰色の雲は、まるでこの世界から色という色を吸い取ってしまったように重たく垂れこめていた。
風はぴくりとも動かず、静寂だけが部屋を満たしている。
いつからだっただろう。
「明日」が、あたりまえのように訪れるものではないと、疑い始めたのは。
目覚めれば朝がきて、通い慣れた道を歩き、変わらぬ教室に腰を下ろす。そんな日々の繰り返しが、ある日ふと、壊れてしまうのではないかという不安が、胸のどこかで静かに芽吹いていた。
──椿がいない日々は、それに拍車をかけた。
僕の時間は、どこかで止まったままだった。
* * *
ベッドの上に、そっと置かれていたノートを、僕は手のひらでなぞるように開いた。
それは、彼女がこの世界からいなくなる直前に残していったもの──いや、厳密には、「これから」残すものだった。
日付は、僕の今よりも五年も未来のもの。そして、ページの端には小さな字で、こう記されていた。
《観測記録001》
──《7月5日:観測成功。タイムラインは安定中》
──《7月6日:未来改変リスク:低。接触者は問題なし》
──《7月7日:春川光輝、最初の選択に直面》
指先がページをめくるたびに、心臓が冷たく締めつけられていく。
記録の中には、何度も僕の名前が出てきた。
あまりにも、具体的に。
《接触者は、未来の破綻を引き起こす可能性あり》
《対象には未来選択権があるため、接近継続》
《春川光輝に、彼女の“死”を悟らせてはいけない》
「……彼女の、死……?」
小さくつぶやいた声が、部屋の中でやけに浮いた。
不意に胸の奥を鋭い痛みが刺し、喉元が熱を帯びる。
信じたくなかった。
けれど、その文字は確かに、椿のものだった。
癖のある丸い文字、語尾のわずかな伸ばし、丁寧に書かれた日付──それらは、何よりも椿の“存在”そのものだった。
◆
その日、僕は学校を早退した。
黒板の文字は頭に入らず、教室のざわめきも遠く感じた。
夢の中で“僕”が語った「選択」の意味。
それが何を指すのか、無性に知りたくてたまらなかった。
向かった先は、あの図書館だった。
椿がよく立ち寄っていた、あの古びた公共図書館。
彼女がどこか執着するように読み込んでいた棚の前に立つと、記憶が呼び覚まされる。
銀色の刻印がある一冊の分厚い本。
その背表紙に指をかけて引き出すと、かすかな埃の匂いが鼻をくすぐった。
──『時間認知と多世界解釈』
ページをめくると、すぐに赤線が引かれた一節が目に飛び込んできた。
>「時間遷移者(Temporal Diverger)は、ある一点における重大な“選択”によって、時間軸の構造を根本的に変えてしまう可能性がある」
>「その際、過去と未来の因果律は一時的に“歪み”を起こし、“記憶”と“存在”に不整合が生じる」
>「それにより発生するのが“時間消失者”——この世界から、記憶ごと消えてしまう者たちである」
「記憶ごと……消える……?」
ページを握る手に、思わず力が入る。
胸の奥で、誰かの笑顔がよぎった。
──椿。
もし彼女が、時間消失者になろうとしているとしたら。
僕の中の記憶さえ、やがてはこの世界から消え去ってしまうとしたら──。
◆
帰り道。
空から、ぽつり、と雫が落ちた。
夏の湿った空気の中で、どこか体温に近い雨粒が、頬を伝って落ちていく。
駅のホーム。
ぼんやりと立ち尽くす僕の耳に、アナウンスが遠く響いていた。
けれど、意識はどこか遠くにあった。
「時間消失者」──その言葉が、頭の中を巡って離れない。
──そのときだった。
背後に、誰かの視線を感じた。
振り向いた先に、見慣れた姿があった。
「……椿……?」
そこには、一本の透明な傘をさした彼女が立っていた。
雨の粒が彼女の肩を濡らしているのに、どこか現実味がなくて──まるで幻のように、綺麗だった。
「……見つけてくれたんだね」
椿は、少し驚いたように目を見開いたあと、やさしく微笑んだ。
その笑みは、懐かしくて、どこか寂しげで──まるで、最初から別れを告げるためのもののように見えた。
「なんで……どこに行ってたんだよ……!」
僕の声は、滲む感情に押しつぶされそうだった。
「消えかけてたの」
椿は静かに言った。「もう、この時間に長くはいられない」
「……どういう意味なんだよ。それって、どういうことなんだよ……!」
「私は、“明日”を持たない存在だから」
言葉の意味が、すぐには理解できなかった。
でも、その声には、嘘の入り込む余地がなかった。
「この世界に、私の“明日”は存在しない。だから、こうして話している時間にも、私の存在は少しずつ薄れてるの。……“世界の修正力”が働いているのよ」
彼女の瞳は、透明な深淵だった。
そこには恐れも悲しみもなく、ただ、穏やかな諦めがあった。
「でも、まだ……光輝に伝えなきゃいけないことがある」
雨音の中、その声だけが鮮やかに響いた。
「十年後。あなたは、一人の人間の命を左右する選択を迫られるの。
それは、誰かを救い、誰かを犠牲にする選択。……そして、その選択によって、“未来そのもの”が書き換わってしまう」
「僕は……何を選ぶんだ?」
「それは、私にもわからない。でも──あなたの選択で、私が生きる未来が残るかどうかが決まるの」
「じゃあ……僕が、正しい選択をすれば、君は……!」
椿は、そっと首を振った。
「正しい選択なんて、どこにもないの。
選ぶのは、いつだって“間違いかもしれない道”なのよ。……でも、きっとそれでいいの」
◆
電車の音が、駅の空気を震わせた。
その音はまるで、“時間の終わり”を告げる鐘のように響いていた。
椿の姿が、かすかに揺れている。
輪郭が淡くなって、輪郭がぼやけて、まるで世界の“上書き”に消されるように。
「待って……! 行かないでくれよ……!」
僕の声が、雨にかき消されていく。
椿は、最後にもう一度、微笑んだ。
その笑顔は、最初に僕が彼女に恋をしたときのものだった。
「私は、あなたをずっと見ていたよ。
未来でも、過去でも、今でも……
あなたがどんな決断をしても、私はきっと——あなたを、好きになる」
その瞬間、彼女は音もなく、空気の中へと溶けていった。
まるで、最初からそこにいなかったかのように。
残されたのは、降り続く雨の音と、胸の奥に残る温度だけだった。
──僕は、彼女の“明日”を救えるのか。
それとも、この手で彼女の存在を、永遠に失ってしまうのか。
その答えは、まだ、どこにもなかった。
──第三章 了
空が、曇っていた。
カーテン越しに見える灰色の雲は、まるでこの世界から色という色を吸い取ってしまったように重たく垂れこめていた。
風はぴくりとも動かず、静寂だけが部屋を満たしている。
いつからだっただろう。
「明日」が、あたりまえのように訪れるものではないと、疑い始めたのは。
目覚めれば朝がきて、通い慣れた道を歩き、変わらぬ教室に腰を下ろす。そんな日々の繰り返しが、ある日ふと、壊れてしまうのではないかという不安が、胸のどこかで静かに芽吹いていた。
──椿がいない日々は、それに拍車をかけた。
僕の時間は、どこかで止まったままだった。
* * *
ベッドの上に、そっと置かれていたノートを、僕は手のひらでなぞるように開いた。
それは、彼女がこの世界からいなくなる直前に残していったもの──いや、厳密には、「これから」残すものだった。
日付は、僕の今よりも五年も未来のもの。そして、ページの端には小さな字で、こう記されていた。
《観測記録001》
──《7月5日:観測成功。タイムラインは安定中》
──《7月6日:未来改変リスク:低。接触者は問題なし》
──《7月7日:春川光輝、最初の選択に直面》
指先がページをめくるたびに、心臓が冷たく締めつけられていく。
記録の中には、何度も僕の名前が出てきた。
あまりにも、具体的に。
《接触者は、未来の破綻を引き起こす可能性あり》
《対象には未来選択権があるため、接近継続》
《春川光輝に、彼女の“死”を悟らせてはいけない》
「……彼女の、死……?」
小さくつぶやいた声が、部屋の中でやけに浮いた。
不意に胸の奥を鋭い痛みが刺し、喉元が熱を帯びる。
信じたくなかった。
けれど、その文字は確かに、椿のものだった。
癖のある丸い文字、語尾のわずかな伸ばし、丁寧に書かれた日付──それらは、何よりも椿の“存在”そのものだった。
◆
その日、僕は学校を早退した。
黒板の文字は頭に入らず、教室のざわめきも遠く感じた。
夢の中で“僕”が語った「選択」の意味。
それが何を指すのか、無性に知りたくてたまらなかった。
向かった先は、あの図書館だった。
椿がよく立ち寄っていた、あの古びた公共図書館。
彼女がどこか執着するように読み込んでいた棚の前に立つと、記憶が呼び覚まされる。
銀色の刻印がある一冊の分厚い本。
その背表紙に指をかけて引き出すと、かすかな埃の匂いが鼻をくすぐった。
──『時間認知と多世界解釈』
ページをめくると、すぐに赤線が引かれた一節が目に飛び込んできた。
>「時間遷移者(Temporal Diverger)は、ある一点における重大な“選択”によって、時間軸の構造を根本的に変えてしまう可能性がある」
>「その際、過去と未来の因果律は一時的に“歪み”を起こし、“記憶”と“存在”に不整合が生じる」
>「それにより発生するのが“時間消失者”——この世界から、記憶ごと消えてしまう者たちである」
「記憶ごと……消える……?」
ページを握る手に、思わず力が入る。
胸の奥で、誰かの笑顔がよぎった。
──椿。
もし彼女が、時間消失者になろうとしているとしたら。
僕の中の記憶さえ、やがてはこの世界から消え去ってしまうとしたら──。
◆
帰り道。
空から、ぽつり、と雫が落ちた。
夏の湿った空気の中で、どこか体温に近い雨粒が、頬を伝って落ちていく。
駅のホーム。
ぼんやりと立ち尽くす僕の耳に、アナウンスが遠く響いていた。
けれど、意識はどこか遠くにあった。
「時間消失者」──その言葉が、頭の中を巡って離れない。
──そのときだった。
背後に、誰かの視線を感じた。
振り向いた先に、見慣れた姿があった。
「……椿……?」
そこには、一本の透明な傘をさした彼女が立っていた。
雨の粒が彼女の肩を濡らしているのに、どこか現実味がなくて──まるで幻のように、綺麗だった。
「……見つけてくれたんだね」
椿は、少し驚いたように目を見開いたあと、やさしく微笑んだ。
その笑みは、懐かしくて、どこか寂しげで──まるで、最初から別れを告げるためのもののように見えた。
「なんで……どこに行ってたんだよ……!」
僕の声は、滲む感情に押しつぶされそうだった。
「消えかけてたの」
椿は静かに言った。「もう、この時間に長くはいられない」
「……どういう意味なんだよ。それって、どういうことなんだよ……!」
「私は、“明日”を持たない存在だから」
言葉の意味が、すぐには理解できなかった。
でも、その声には、嘘の入り込む余地がなかった。
「この世界に、私の“明日”は存在しない。だから、こうして話している時間にも、私の存在は少しずつ薄れてるの。……“世界の修正力”が働いているのよ」
彼女の瞳は、透明な深淵だった。
そこには恐れも悲しみもなく、ただ、穏やかな諦めがあった。
「でも、まだ……光輝に伝えなきゃいけないことがある」
雨音の中、その声だけが鮮やかに響いた。
「十年後。あなたは、一人の人間の命を左右する選択を迫られるの。
それは、誰かを救い、誰かを犠牲にする選択。……そして、その選択によって、“未来そのもの”が書き換わってしまう」
「僕は……何を選ぶんだ?」
「それは、私にもわからない。でも──あなたの選択で、私が生きる未来が残るかどうかが決まるの」
「じゃあ……僕が、正しい選択をすれば、君は……!」
椿は、そっと首を振った。
「正しい選択なんて、どこにもないの。
選ぶのは、いつだって“間違いかもしれない道”なのよ。……でも、きっとそれでいいの」
◆
電車の音が、駅の空気を震わせた。
その音はまるで、“時間の終わり”を告げる鐘のように響いていた。
椿の姿が、かすかに揺れている。
輪郭が淡くなって、輪郭がぼやけて、まるで世界の“上書き”に消されるように。
「待って……! 行かないでくれよ……!」
僕の声が、雨にかき消されていく。
椿は、最後にもう一度、微笑んだ。
その笑顔は、最初に僕が彼女に恋をしたときのものだった。
「私は、あなたをずっと見ていたよ。
未来でも、過去でも、今でも……
あなたがどんな決断をしても、私はきっと——あなたを、好きになる」
その瞬間、彼女は音もなく、空気の中へと溶けていった。
まるで、最初からそこにいなかったかのように。
残されたのは、降り続く雨の音と、胸の奥に残る温度だけだった。
──僕は、彼女の“明日”を救えるのか。
それとも、この手で彼女の存在を、永遠に失ってしまうのか。
その答えは、まだ、どこにもなかった。
──第三章 了



