この世界からきみが消えても


「先生! 莉久は……」

 思わず(すが)るように駆け寄ると、白衣をまとう先生は柔らかく笑んだ。

「大丈夫です、状態は安定しました。ひとまず心配いりません」

 張り詰めた状況を抜け出したようで、深々と安堵の息をつく。
 緩やかに身体の強張りがほどけていった。

「何があったんですか? どうして急にこんな……」

 もしや、藤井さんが仕損じたことで今度こそ真犯人が出張(でば)ってきたのではないだろうか。

 自らの手で莉久の息の根を止めようと、点滴に妙な薬剤でも混入させたとか────なんて恐ろしい想像は、先生が即座に否定してくれた。

「正直、そう深刻になるほど珍しいことではありません。生理的変動による一時的な急変です。軽度なもので早く処置できたので、後遺症などの心配も無用です」

 ただでさえ冷静さを失っている頭では、言っていることの半分も理解できなかったけれど、とにかく問題はなさそうでほっとした。

 要するに、体内の水分や電解質のバランス、血圧なんかの調整に失敗し、身体の循環機能が一時的に乱れたということだそうだ。
 迅速な対応を施してくれたお陰で事なきを得た。少なくとも今回は。

 何度もお礼を告げてから、病室に足を踏み入れる。
 眠る莉久の顔色は当初のようにどこか青白く、まだ呼吸が浅いのか息遣いまで聞こえた。

 じわ、とひとりでに涙が滲む。
 ほっとしたやら恐ろしいやら、このわずかな間で揺さぶられた心が随分とすり減った。

 傍らの椅子に力なくへたり込むと、いまにもあふれそうな涙を拭う。

「……っ」

 莉久のことはもちろん常に心配だった。
 毎日、寝ても()めても心の底から案じ続けていた。

 けれど、どこか油断していたのだと思い知らされる。
 そのうち当たり前に目覚めるものだとばかり────そう信じたいがために高を括っていたんだ。

 凄惨(せいさん)な事件に巻き込まれても、命だけは助かったという事実に甘えていたのかもしれない。
 いまになって初めて危機感や絶望を抱いた。

 突然、莉久が襲われて日常が一変したように、本当にいつ何がどうなってもおかしくないのだ。

 明日があるとは限らない。
 そんな当たり前の前提を忘れていた。

 “平穏”に縋ってあぐらをかいていたのだと自覚する。
 いつ終わるとも知れない、幻想でしかなかったのに。

「……ごめん。ごめんね、莉久」

 心から告げると、涙が頬を伝って落ちた。

「これからはもう離れないから。莉久が目を覚ますまで、わたしがそばにいる」

 片時も離れることなく見守っていたい。
 ────そう思う傍ら、ひときわ冷静な自分が“でも”と唱える。