雨と妖精に導かれて ──御曹司CEOからの溺愛ラビリンス

 北海道・美瑛の朝は、吐く息すら透きとおるような静けさの中で始まった。
  ペンションの窓から差し込む光はやわらかく、揺れるカーテンの隙間から、風に乗ってラベンダーの香りが微かに漂ってくる。
 「おはよう。」
 低く、けれど甘やかな声で、美里は目を覚ました。
  横を見ると、隣のソファで泰雅が静かにタブレットをスクロールしていた。
  彼は朝が早い。
  けれど一緒に過ごすこの旅では、どこか肩の力が抜けているようにも見えた。
 「少し散歩しようか。君に見せたい場所がある。」
 その言葉に導かれるように、ふたりはペンションを出た。
  向かった先は、“青い池”。
  コバルトブルーの湖面が、朝の光を吸い込み、まるで鏡のように世界を映していた。
 観光地とは思えないほど静かで、幻想的な景観。
  湖面に立つ枯れ木たちは、まるで時を止められた彫刻のように、静かに水の中に眠っている。
 ふたりが木道に足を踏み入れたそのとき――
 「ねぇ、お姉さん。魚、欲しい?」
 唐突な声に、振り返った。
  そこには、小さな男の子がスケッチブックを抱えて立っていた。
  歳の頃は七つか八つほど。麦わら帽子をかぶっていて、手元には色鉛筆。
 「魚……?」
 「うん。僕が描いた魚、動くんだよ。」
 笑いながら差し出したスケッチブックには、極彩色の大きな魚の絵があった。
  なんとも言えない、けれど引き込まれるような線。
  美里は、思わず息を飲む。
 「アキって言います。」
 少年はぺこりと頭を下げた。
 「……もしかして……あなた、描いたものが“現実になる”の?」
 その問いに、アキは平然とうなずいた。
 「うん、でもね、全部が全部じゃない。ちゃんと“見る人の心”が動かないと、絵も動かない。」
 その言葉に、泰雅が横で目を細めた。
  まるで、何か確信を得たような面持ちで。
 「この子……“例のプロジェクト”で話に出てたイラストレーターじゃないか?」
 「例の……?」
 「一部で噂になってる。“描いた通りに庭が育つ”“絵本に出てきた動物が目撃された”って。都市伝説みたいな話だったけど、名前が一緒だ。」
 アキは小さく笑う。
 「ぼくの力、信じてもらわなくてもいいよ。でも、お姉さんが今、欲しいって思った“形”なら、見せてあげられる。」
 そう言ってアキは、池のほとりに座り込み、スケッチブックを開いた。
  しばらく何も言わずに、手を動かし続ける。
 そして――
 「できた。」
 そう言って見せたのは、美里が子どもの頃に父と釣ったことのある、虹色のニジマスだった。
  美里の記憶の中にしか存在しない、特別なかたち。
 「どうして……これを……?」
 「お姉さんの中にあった“懐かしい魚”が見えたから。」
 次の瞬間――湖面に、絵と同じ魚影が浮かび上がった。
  それは水面をすべるように泳ぎ、波紋だけを残して消えていく。
 「……見えたよね?」
 美里は震える指で泰雅の手を握っていた。
 「うん、見えた。……確かに。」
 そのとき、アキはふたりをじっと見つめ、にこりと笑った。
 「お姉さんとお兄さんが一緒にいると、未来の絵が浮かんでくる。」
 「未来の……?」
 「うん。まだ描いてないけど、ちゃんと“幸せな絵”になりそう。だから、ぼく、それを描くことにする。」
 アキはスケッチブックを大事そうに抱えて立ち去っていった。
  ふたりは、ただその小さな背中を見送るしかなかった。
 「未来の……絵。」
 美里がぽつりと呟く。
 泰雅は、その肩をそっと抱き寄せた。
 「俺は、君とならどんな未来も受け入れられる。奇跡が起きるなら、君と一緒に起こしたい。」
 澄みきった青の世界で、ふたりはまた新たな“記憶”を刻んでいた。



 アキの姿が見えなくなったあとも、美里と泰雅はしばらくの間、青い池の前で静かに立ち尽くしていた。
  澄みきった水面は、まるで何かを問いかけるようにふたりの姿を映している。
 「“未来の絵”……だって。」
 美里は呟いた。
  どこか夢の中にいるような、けれど確かに“何かを受け取ってしまった”あとの不思議な感覚が、身体の奥に残っていた。
 「信じられないです。でも、あの魚……見た気がしました。」
 「俺もだ。」
 泰雅は真剣な目で湖を見つめていた。
  彼のその横顔が、東京で見るどんなスーツ姿よりも、ずっと自然で、ずっと穏やかだった。
 「未来って、怖いです。」
 「なぜ?」
 「……だって、今がこんなに幸せだと、この先それを失うのが怖くなります。」
 そう言って、美里は両手で自分の胸元を押さえた。
  その手には、泰雅から贈られた“心をつなぐ鍵”のペンダントが光っている。
 「失わないさ。」
 「……どうして、そんなふうに言い切れるんですか?」
 「君がいる未来を、俺が創るから。」
 泰雅の言葉は、どこまでもまっすぐだった。
  その目に、迷いはなかった。
  それどころか、“自分の未来は君で完成する”とでも言いたげな、強い確信があった。
 その夜、美瑛のペンションに戻ると、部屋の前にひとつの封筒が置かれていた。
  差出人はなかったが、中には一枚のスケッチブックの切れ端が入っていた。
 描かれていたのは──まだ見ぬ“邸宅”。
 それは、不思議な建物だった。
  一見して洋風の邸宅のようでありながら、日本家屋の温かみも併せ持ち、何より周囲には無数の花々が咲き誇っていた。
  色鉛筆で描かれた空には、虹が浮かび、家の前には、泰雅と美里によく似た男女が寄り添う姿。
 「……アキくんの絵だ。」
 「……これが、彼が言っていた“未来の絵”?」
 泰雅は、そのスケッチをそっと手に取った。
  見開いたページの右下には、こう書かれていた。
 《この家に、きっと幸せが住みますように。》
 言葉の端々には、まだ稚拙さがあった。
  けれどその“願い”は、奇跡のようにまっすぐだった。
 「……こんな未来、私たちに訪れると思いますか?」
 「“訪れる”んじゃない。“迎えに行く”んだよ。」
 泰雅は、まるでそれをすでに現実として受け入れているようだった。
  美里の不安を軽やかに包み込んでしまうような、確信の笑みをたたえて。
 「君の笑顔を守るために、俺は何でもするよ。何年かかっても、この絵に描かれた家を建てよう。君と住むために。」
 美里の胸が、ぎゅうっと締めつけられた。
  それは苦しさではなく、温かさだった。
  彼の言葉の一つ一つが、心の奥に降り積もっていく。
 「……この絵、預かってもいいですか?」
 「もちろん。」
 「いつか、この絵が現実になる日を信じられるように……そのときまで、私が守ります。」
 そう言って、彼女は絵を胸に抱きしめた。
 ペンションの窓の外では、満天の星が静かに光っていた。
  音もなく、風もない夜。
  けれどふたりの間には、確かな“未来の気配”が息づいていた。
 青い池で刻まれた記憶。
  ひとりの少年が残したスケッチ。
  そして、それを信じるふたりの想い。
 すべてが、この先を照らす小さな灯火になった。
 【第8章『重ねる記憶』 終】