雨と妖精に導かれて ──御曹司CEOからの溺愛ラビリンス

 美瑛の空は、まるで絵の具を溶かしたように澄みわたっていた。
  広がる大地、どこまでも続く丘陵のライン。
  東京では想像できないほどの静けさと透明感が、朝の空気に満ちていた。
 六月の中旬、まだ肌寒さが残る北海道の初夏。
  ふたりは今、短期のワーケーションとしてこの美瑛に滞在していた。
 「まさか、有栖川さんがこういう場所を選ぶなんて、思いませんでした。」
 ペンションの前に立つ美里は、顔をほころばせながら泰雅を見上げた。
  彼は黒のアウトドアジャケットにジーンズという、東京では決して見せなかったラフな装いをしていた。
 「泰雅でいいよ。ここでは、肩書きもスーツも脱ぎ捨てたくてね。」
 その言葉に、美里はくすっと笑った。
 「……こっちのほうが、なんだか近く感じます。」
 「それは、嬉しいな。」
 ペンションのロビーには、木の香りが漂っていた。
  大きな薪ストーブが据えられ、柔らかいブランケットと古びた本、そして飴色に光る床板。
  オーナー夫婦が笑顔で出迎えてくれるその空間は、まるで時間が止まったような安らぎに包まれていた。
 「いらっしゃい、美里ちゃん!」
 元気な声が玄関から響いた。
  姿を現したのは慈美――美里の親友であり、今回のワーケーションの企画立案者でもある。
 「ここの畑、来月から有機栽培の新しい試み始めるんだけど、今日から準備が本格化するの。手伝ってくれる?」
 「もちろん!」
 「……有栖川さんも、スーツの代わりに軍手と長靴よろしくね。」
 「まかせて。」
 肩をすくめながらも、泰雅は即答した。
  それを見て、慈美は意外そうに眉を上げた。
 「スーツしか着ないと思ってた。」
 「案外こういうの、嫌いじゃないんだ。」
 そう言って笑う泰雅の姿は、どこか少年のようだった。
  美里はその横顔に、ふと胸を締めつけられるような感覚を覚えた。
 ──この人は、本当はもっと自由になりたかったのかもしれない。



 午後になり、丘のふもとの畑では、風にそよぐラベンダーの香りが一面に広がっていた。
  美里は、土に指を埋めながら苗を植えていく作業に没頭していた。
  汗をかきながらも、どこか懐かしく、心が研ぎ澄まされていく。
 一方、泰雅はというと――。
 「うっ、泥が……!」
 「足の運びが悪いからだってば!」
 慈美に小突かれながら、慣れない長靴姿で畑に立っていた。
  高級車のステアリングなら完璧に操る男が、鍬一本で悪戦苦闘する姿に、美里は思わず吹き出す。
 「笑わないでくれ……これはこれで本気なんだから。」
 「その顔で軍手してるのが、ギャップすごくて。」
 「……そんなに似合ってない?」
 「いえ、素敵です。ちょっと、びっくりするほど。」
 褒めたつもりが、泰雅はふいに顔を赤らめる。
 「……そんなこと、言われたらもっと頑張りたくなるだろ。」
 心臓が跳ねる。
  この人は、どうしてこうも、不意打ちが上手なんだろう。
 夕方、作業が終わった後、ふたりはペンションの暖炉前で肩を並べていた。
  火のはぜる音が、静かに室内を満たしている。
 美里は、慈美から預かった手編みのマフラーを膝に乗せていた。
 「このマフラー……色が、あたたかいですね。」
 「慈美が言ってた。編んだ人の気持ちが、糸に宿るって。」
 「じゃあ、これも……誰かの“想い”がこもってる?」
 「きっと、そうだと思う。」
 泰雅の手が、自然と美里の手に重なる。
 「君のぬくもりも、ちゃんと届いてるよ。」
 美里は、そっと目を閉じた。
  あのドローン事故の朝から、ふたりの距離は確実に変わった。
  けれど、今こうして並んでいることが何より尊く、言葉にするより深く“伝わっている”と感じられた。
 「私も……今夜のこの時間、忘れたくないです。」
 「忘れられないよ。たとえこの先、何があっても。」
 ふたりを包む暖炉の炎が、揺らめく影を壁に映し出していた。
  その影は、まるで長い旅の途中で、ようやく寄り添うことを許されたふたつの心のようだった。
 【第7章『忘れられない温もり』 終】