数日後の午後。
美香奈は、警察署の一角にある相談室の椅子に座っていた。
机の上には、まだ空白の多い被害届の用紙と、
丁寧に印刷された「供述書作成に関する説明書」。
少し震える指先で、資料のページをめくる。
「ゆっくりで大丈夫です。
すべてを今日決める必要はありませんから」
神谷の声は、隣に座ることでいつもより近く、そして穏やかだった。
普段の制服ではなく、スーツ姿の神谷。
刑事課にヘルプで入っている彼は、きちんとしたスーツの襟元を直しながら、
美香奈にやさしく声をかける。
「……ありがとうございます」
美香奈は、少しだけ驚きながらも笑みをこぼす。
「大丈夫ですよ。
あなたのペースで進めていきましょう」と、神谷は穏やかに続けた。
机の上にある被害届に目を落とした美香奈は、しばらく言葉を探すように黙っていた。
「……私は……」
言葉に詰まった美香奈は、深く息を吸った。
「……やっぱり、このまま終わらせたくないです。
名前も顔も知らない相手に、こんなふうに壊されて……
そのまま忘れたふりなんて、できない」
神谷は静かに頷く。
スーツ姿でも、まるでいつものように彼女を支えてくれるような、温かい眼差し。
「わかります。
ただ、手続きは少し時間もかかるし、精神的にも負担になることもあります。
だからこそ、僕らがしっかり支えます。橋口さんのペースで、少しずつやっていきましょう」
「……はい」
美香奈は少しずつ、心の中で覚悟を決める。
その隣にいる神谷が、これからも支えてくれることを信じて。
彼女はペンを手に取り、用紙の右上にそっと名前を書き入れた。
その筆跡が、震えていてもいい。
それは、“向き合う”と決めた証だから。
「……ちゃんと、伝えたい。
起きたことも、自分の気持ちも、全部」
神谷の目が、少しだけ熱を帯びる。
「……きっと、伝わります。
あなたの声は、ちゃんと届きますよ」
ふたりの間にあった沈黙は、決して重苦しいものではなかった。
それは、“これから”をともに見据えた、静かな決意の空気だった。



