「折り鶴を千羽、あの人に」

 藁ぶき屋根の家の中。夕餉の仕度を終えた女は、灯の下でそっと紙を広げる。
 手元にあるのは、千代紙ではない。町で貰ってきた古い帳面の切れ端、捨てられた菓子包み、時には自分の髪を結っていた和紙の細工さえ裂いて。
 それでも、折り鶴はひとつ、またひとつと形になっていく。

 しんしんと冷える夜だった。外では風が梢を揺らし、かすれた音が遠くから聞こえる。
 その音に混じって、かすかに響く折り紙の音。指の腹が紙をなぞるたび、ささやかな祈りが紙に吸い込まれていく。

 「……ただいまって、笑ってくれればそれでいいのにね」

 彼が出征したのは、五年前の春だった。
 軍帽をまぶしく被り、背筋を伸ばしたあの人の背を、女は何度も何度も目で追った。
 涙は見せなかった。強くありたかった。ただ、胸の奥に「待つ」という言葉をそっとしまっただけ。

 けれど、待っても、待っても。
 彼は帰らなかった。

 軍からの報せには、死んだとも、生きているとも書かれていなかった。
 たった一言——「行方不明」。
 それでも女は諦めなかった。

 なぜだか、どんなに長く月日が経っても、あの人がどこかで息をしている気がしてならなかった。

 それならば——

 「折るよ、あなたが見つけてくれるまで。
 一羽ずつ、帰り道をつくっていくの」

 千羽目の鶴を折ったのは、春先の夜。
 障子の向こうで咲きはじめた梅が、かすかに香っていた。

 その鶴は、少しだけ歪んでいた。
 疲れ切った指先、眠らない日々。それでも、その羽にはたしかに想いが込められていた。


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 その日から、彼女は人づてに噂を探しはじめた。
 軍から戻ってきた男たちがどこにいるのか、どんな姿で、どんな名前で生きているのか。

 そしてある日、耳に入った。

 「となり町に、記憶をなくした男が住んでるらしい。戦から戻ったって話だが、誰も本当の名前を知らねえ」

 女の胸が、はねた。
 それは希望なのか、恐れなのか。手は震えて、荷物を結ぶ風呂敷を三度もやり直した。


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 となり町の川べり。夕暮れの光が水面を染めるころ、一人の男が歩いていた。

 男は、どこか所在なげな歩き方をしていた。
 背筋はまっすぐなのに、まるで自分の居場所を探しているような——そんな足取り。

 「……志郎、さん……?」

 名を呼ぶと、男は立ち止まった。

 振り返ったその顔は、まぎれもなく、彼だった。

 でも——

 「すみません、どちら様でしょうか」

 彼の目は、女を知らない人のように見ていた。

 声は、同じだった。手の骨のかたちも、笑ったときの眉の寄せかたも。
 でも、そこに彼はいなかった。

 「……村上直之、と申します。ご用件を……?」

 女は、震える指で風呂敷を解いた。
 中から溢れ出したのは、色あせた紙の鶴たち。
 千羽の想いが、風に揺れ、光に染まる。

 「あなたを、ずっと待っていました。
 これはその証です。毎晩あなたの名を唱えて、指先で祈ってきた鶴たち……」

 男の瞳が、すこし揺れた。
 ひとつの鶴に指先が触れる。

 「……これ……見たことがある気がします」

 そう言って、彼はその鶴をそっと懐に入れた。


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 季節がふたたび巡り、梅の花が香りだす頃。
 女の元に、一通の手紙が届いた。

> あの鶴のことを、夢で見ました。
あなたのことも、少しだけ思い出しました。
まだすべては戻りませんが、
もう一度、お会いできませんか。



 差出人の名は、
 ——村上 志郎。

 女は、手紙を抱いたまま、音もなく涙をこぼした。
 千羽の祈りは、きっと届いた。
 たとえ全てを思い出さなくても、心のどこかに、あの日の光がまだ残っているなら——

 それで、いい。

 それだけで、生きてきた意味がある。