『雨のち簪』
江戸、吉原。
格子の奥、薄明かりの中に座る女の髪には、ひときわ目立たぬ一本の簪が刺さっていた。
金でも銀でもない、つるりとした黒檀(こくたん)の簪。
贅を尽くした装いの中に、それだけが妙に静かだった。
彼女の名は「沙世(さよ)」。
昼間は笑い、夜には艶を纏い、夢のような言葉で男を包む。
でも、本当の声を知っている者は、この世に一人だけだった。
六年前。
火除け地蔵のそばで、雨宿りをしていたときのことだった。
「傘、いりますか?」
声をかけてきたのは、若い町医者の卵だった。
その日から、二人は何度も偶然を重ねた。
それは恋でも、恋ではないと言い聞かせるための言い訳でもあった。
一度だけ、逢引きをした夜があった。
彼は言った。
「沙世さんがここを出られたら、一緒に暮らしましょう。小さな家でも構わない」
「出られたら、ね」
「出られたら、じゃない。俺が迎えに行くから」
「……ほんと、馬鹿ね」
彼が置いていったのが、その黒檀の簪だった。
「嫁入り道具の一つだ」と、照れ隠しのように言って。
けれどその後まもなく、沙世のもとに彼の訃報が届いた。
流行病(はやりやまい)の治療に向かった村で、自分も倒れたという。
駆け出しの町医者。
志ひとつで、世の理不尽に立ち向かおうとした愚直な男。
何も残さず、何も言わずに、消えてしまった。
——それから六年。
彼女は今も、夜ごとに笑い、髪に飾る。
「いけないわね、いつまでもこんなもの」
鏡を見ながら、沙世は自分に言う。
でも、その簪だけはどうしても捨てられなかった。
誰にも気づかれぬように、目立たぬように。
それでも確かに、そこに在る。
一度も来なかった人を、
一度だけ会いたかった人を、
今でも、髪に留めている。


