冷徹専務は、私の“嘘”に甘くなる

春の陽射しが、やさしく街の輪郭をなぞる午後。
駅前のカフェのテラス席で、私はゆっくりと深呼吸した。

目の前には、専務――いえ、颯真さんがいる。

「今日は、ある人に会ってもらいたくて」

そう言われて、ついてきたものの、
まさかこのあと誰が来るのかは聞かされていなかった。

ほどなくして、少し小柄な影が視界に入った。

「パパーっ!」

駆け寄ってきたのは――あの子だった。
あの、フェンス越しに「がんばれー!」と笑っていた、あの女の子。

颯真さんの腕にすがるようにして駆け寄った彼女は、私の姿を見るなり、大きく目を見開いた。

「……あっ! テニスのお姉ちゃん!」

一瞬、時が止まったようだった。

(覚えてくれてる……)

心春――そう呼ばれていた彼女は、ぱぁっと顔を明るくして、まっすぐ私のもとへ駆け寄ってきた。

「ずっと会いたかったんだよ! お姉ちゃん、いなくなっちゃったから、寂しかったの!」

小さな手が、私の手をぎゅっと握る。

あまりにもまっすぐな笑顔に、思わず胸が詰まった。

「……私も、会いたかったよ。こんなに大きくなったんだね」

「うん!パパと一緒に、いっぱい頑張ったもん!」

はにかんだ笑顔は、あの頃と少しも変わっていなくて。
でもどこか、たくましさすら感じさせていた。

その笑顔が、何よりも嬉しかった。

しばらく3人で他愛ない話をしていたとき。
心春は、唐突に、まるで何でもないことのように聞いてきた。

「ねぇパパ、お姉ちゃんと結婚するの?」

息を飲む音が、私と颯真さんの間に静かに響いた。

彼は、ふっと苦笑して、私の方を見た。

私は――何も言えなかった。

でも、何も言わずに見つめ合ったその瞬間、
自然と手が、そっと繋がれた。

ぎこちなくもなく、戸惑いもなく。

ただ、あまりにも自然に。

手のひらから伝わる温度が、これまでのすれ違いをすべて溶かしていくようだった。

心春は、その様子を見て、にっこりと笑った。

「じゃあ、けっこん決定だね!」

まるでおままごとの延長みたいに、無邪気に言う。

私と颯真さんは、思わず顔を見合わせて、同時に笑った。

こんな風に、笑い合える日が来るなんて――
ほんの数ヶ月前の私は、想像すらしていなかった。



颯真さんに誘われて訪れたのは――大学の、あのテニスコートだった。

フェンスも、コートの色も、当時のままだった。

懐かしい風が頬を撫でる。

「ずっと、ここに来たかったんだ」

そう呟いたとき、ふいに背後から小さな声が聞こえた。

「お姉ちゃん、テニスしてるところ、また見たい!」

心春が、ボールとラケットを抱えて笑っていた。

私の胸が、ぎゅっと熱くなった。

「……じゃあ、ちょっとだけね」

そう言って、ラケットを握り、ボールをトスする。
ぎこちなくても、体は覚えていた。

ふいに、金網越しから聞こえてきた、あの声が蘇る。

「がんばれー!」

今、その声は――目の前から聞こえていた。

金網の“向こう”じゃない。
“隣”から、届いていた。

打ち返したボールが、まっすぐにネットを越える。

「すごーい!」

心春が跳ねるように喜んで、颯真さんがゆるく笑った。

コートの端にラケットを置き、私はふたりのもとへ戻る。

颯真さんが、ゆっくりと私の手を取った。

「これからは、ずっとそばで応援するよ」

その声が、まっすぐに胸に届いた。

「私も……もう、離れません」

そう返したとき――
自然と、笑みがこぼれていた。

過去に置いてきた“あの日”の続きが、
ようやく、ここから始まる。

金網越しではなく、同じ場所で並んで。

3人で見上げた春の空が、
こんなにも優しいなんて――知らなかった。