冷徹専務は、私の“嘘”に甘くなる

「澪、お見合いの話が来ているの」

それは、何の前触れもなく、母から告げられた。

祖母の茶室でのお稽古帰り、久々に実家で夕飯を囲んでいたときだった。

箸を置いた母は、まるで「明日の天気は晴れらしいわね」とでも言うような軽さで続ける。

「お相手は父の知人の息子さん。うちとは昔からご縁がある家よ。学歴も職歴も申し分なくて、礼儀正しい方だそうよ」

(……また、これか)

思わず、心の中でため息をついた。

「今は仕事に集中したい」と、何度も言ってきた。
“結婚はまだ早い”と、控えめに伝えてきた。

けれど、それももう通じないのだろう。

「もうそろそろ良いご縁を探しておかないと。相手のあることなんだからね」

“結婚適齢期”
“家柄に見合う相手”
“育ちも素性も申し分ない人”

そうやって、条件だけが先に並べられていく。

「今度の日曜、会ってきなさいね」

母は、それで決定事項だと言わんばかりに言った。

私の返事を、聞こうともしないまま。

(……嫌だな)

素直に、そう思った。

好きでもない相手と、挨拶して、愛想笑いをして、将来の話をするなんて。
まるで、自分の人生が“誰かの棚”に陳列されるような気がして、息苦しかった。

それでも、口にはできなかった。

反対したところで、別の見合い話が持ち込まれるだけ。
“結婚”が義務のように積み上げられていくこの家では、もはや逃げ道なんて残されていない。

(だったら――)

脳裏に浮かんだのは、彼の顔だった。

一ノ瀬颯真。
誰より厳しくて、冷たくて、でもときどき、誰よりも優しい人。

優しさを向けられるたび、胸が軋んだ。

(専務じゃないなら、誰でも同じ――かもしれない)

好きになってはいけない人に恋をした。
家庭があると知り、ずっと距離を取ってきた。
ようやく少し近づけた気がしたのに、その想いは言葉にする前に、心の奥へ沈んでいった。

「結ばれない相手に、心を留めていても、意味なんてないのに」

声には出さなかった。
だけど、自分で自分を納得させるために、心の中で繰り返した。

「……わかったわ。行ってくる」

そう母に告げたとき、ほんの少しだけ、肩の力が抜けた気がした。

覚悟というより、“諦め”だった。

「専務じゃないなら、もう誰でもいい」――

それが、今の私の本音だった。

日曜の午後、見合いが行われるというホテルのラウンジの予約票が届いた。

何もかもが用意されていて、私がするのはただ、そこに“座る”だけ。

(名前も知らない相手に会って、笑って、頷いて)

(まるで、台本通りの“役”を演じるみたい)

そんな自分が、少しだけ悲しかった。

でも、それでも。

このまま“想ってはいけない人”を追いかけ続けるより――

(……ずっと、楽かもしれない)

そう思った。