冷徹専務は、私の“嘘”に甘くなる

――私の家は、いわゆる「由緒ある家柄」と呼ばれるらしい。

祖父は財閥系のグループ創設者、父はその跡を継ぎ、母は元華族筋の令嬢。
私はそんな家に生まれ、幼い頃から“箱入り娘”として育てられてきた。

幼稚園から大学まで、ずっと女子校の付属。
制服は、着崩すことすら許されない。
外出の際には必ず送迎がつき、習い事はバレエ、ピアノ、茶道、華道。

振る舞いも、言葉遣いも、周囲から期待される“品格”を守るように教えられてきた。

言い換えれば、徹底して“管理された人生”だった。

でも――

大学に入ったあたりから、心のどこかが、ずっとざわついていた。

「このまま、お見合いをして、家同士が決めた相手と結婚するのかな」
「お料理はプロに任せて、お手伝いさんに囲まれた生活のまま?」
「それで本当に、私は“私”として生きられるんだろうか」

友人たちは恋をして、アルバイトをして、自分で服を選び、将来を考えていた。

でも、私は――
何ひとつ、自分の意思で選んでいなかった。

(……普通って、なんだろう)

それを知りたかった。

何でもない日常。
自分で働いて、自分でご飯を選んで、誰かに“お嬢様”じゃない目で見られる世界。

それを、たった一度でも味わってみたかった。

「お願い、就職させてほしいの」

大学3年の春、私は初めて父にそう告げた。

「経験として、短期間でもいい。ちゃんと働いて、社会を見て、自分のことを自分でやってみたいの」

父は最初、完全に反対だった。

「澪、お前にはもう将来が約束されている。なぜわざわざ茨の道を選ぶ必要がある?」

母も「無理に疲れる世界に行かなくても」と、静かに言った。

でも、私は引かなかった。

「そういう世界にしか、“本当の私”は存在しない気がするの」

「誰かの娘でもなく、誰かの嫁でもなく……“高梨澪”として、ひとりで立ってみたい」

震えながらも、そう伝えた。

そして、条件付きで許可を得た。

・実家から通える距離であること。
・企業は信頼できる相手先に限ること。
・身分を伏せ、あくまで“一般応募”で臨むこと。

そして私は、父が懇意にしている一ノ瀬ホールディングスを選んだ。

当然、裏からのコネは使っていない。
一介の応募者として面接を受け、筆記を通過し、数十名の内定者のうちの一人として“選ばれた”。

それだけが、誇りだった。

だからこそ。

入社してからも、“家のこと”は一切口にしなかった。

「秘書課」に配属されたときも驚いたが、文句は言わなかった。

社長の息子である専務――一ノ瀬颯真さんの秘書になったときも、戸惑いはしたけれど。

「やるしかない」と決めた。

どんなに叱られても、うまくやれなくても。
「新人のくせに」「なんであんな人が担当なの」――陰口に傷ついたこともあった。

でも、それでも。

“自分で選んだ場所”だったから、逃げたくなかった。

婚約者なんていない。
恋愛経験も、ない。
告白されたこともあるけれど、全部“家の名前”が理由だった。

だから、あのとき咄嗟に口にした「婚約者がいるんです」という嘘は、
自分を守るための手段にすぎなかった。

社内の空気を変えたかった。
同時に誰にも深入りされたくなかった。
“お嬢様”ではなく、“ただの社員”でいたかった。

それだけだった。

けれど――

最近、揺れてしまう。

優しくされたとき、
名前を呼ばれたとき、
褒められたとき。

胸の奥が、少しずつ“嬉しい”という感情で満たされてしまう。

(この気持ちは、ダメ)

そう思いながらも、
私は今、誰よりも彼の隣で働けることが、誇りになっている。

誰にも言えない。
けれど、きっと、もう――戻れない。