冷徹専務は、私の“嘘”に甘くなる

目の前にある写真の女性は、間違いなく――高梨澪だった。

表情は少し緊張気味で、それでも控えめに笑っていた。
その姿は、いつものオフィスで見せる顔とはどこか違って見えた。
けれど、俺には一目でわかった。

(どうして……?)

思わず声が漏れた。

(なぜ、彼女が……?)

脳内に、これまでの“前提”が一気に走り回る。

――彼女には婚約者がいる。
――だから、自分は彼女に想いを寄せてはいけない。
――仕事の関係を守るためにも、踏み込んではいけない。

そう自分に言い聞かせ続けてきた。
それが、たとえ噂でしかなくても、彼女自身の口から否定されたわけではなかった。

けれど、今、現実として目の前にある“この写真”が――
そのすべてを、音もなく否定し始めていた。

「……父さん」

低く、静かに問いかけた。

「彼女……高梨澪は、婚約者がいるんじゃないのか?」

その言葉に、父はほんのわずかに眉を上げたが、
次の瞬間には肩をすくめて、ため息混じりに答えた。

「婚約者?いや、聞いてないがな。彼女の家とは何度か会っているが、そういう話はまったくなかったぞ」

「……え」

声が掠れた。

「むしろ、そういう話がどこから出てきたのか、不思議なくらいだな。ご両親も彼女も“まだ誰とも付き合ったことがない”と言っていたし、見合いの話も今回が初めてだ」

(嘘、だろ……)

俺は言葉を失った。

社内で流れていた、あの“婚約者がいる”という噂。
彼女がそれを自分の口で認めたという話。

(じゃあ……あれは、全部……)

何のために?

誰に向けて?

なぜ彼女は、そんな“嘘”を口にしたんだ?

答えのない疑問が、頭の中を駆け巡る。

けれど、ひとつだけはっきりしていることがあった。

(彼女は、ずっと独りだった)

誰かと婚約していたわけじゃない。
誰のものでもなかった。

そう思った瞬間、心の奥が熱くなるのを感じた。

手の中の写真を、ぎゅっと握りしめる。

(……だったら)

だったら、今まで俺が距離を置いてきた理由は、
すべて、崩れたことになる。

“想ってはいけない”という制限も。
“彼女は誰かのものだ”という遠慮も。

全部――
俺自身が勝手に創り上げていた、虚構だった。

「……お前、まさか。彼女のこと、気にしてるのか?」

父の声が、少しだけ揶揄を含んで聞こえた。

俺は返事をしなかった。

ただ、目の前の写真をじっと見つめ続けた。

テニス部時代の凛とした雰囲気も、
新人秘書として必死で食らいついてきたあの背中も。

そのすべてが、この写真一枚に重なっていた。

(彼女が、誰のものでもないのなら――)

(……なら、俺が)

その想いが、心の奥底から湧き上がってきた。

彼女に対して抱いてきた感情を、“諦め”や“我慢”という言葉で封じてきた。
けれど今、その蓋が音を立てて外れた。

はっきりと自覚する。

(俺は、彼女を――)

この手で、幸せにしたいと願っている。

今までは“見守るだけ”でよかった。
でも今は違う。

この気持ちを、もう“隠し通すこと”ができそうにない。

父は、ゆっくりと頷いた。

「お前がその気なら……この見合い、乗ってみてもいいんじゃないか?」

その言葉に、俺は静かに視線を上げた。

この瞬間――
すべてが、変わり始めた。

“無理だ”と思い込んでいた未来。
“叶わない”と決めつけていた関係。

それらが、今、初めて現実として手の中に近づいてきた。

俺はもう迷わない。

(彼女の隣に、俺が立ちたい)

そう強く、胸に刻んだ。