あのテニスコートで、彼女が笑った瞬間を――
どうしても、忘れられない。
風に揺れる髪、無防備な横顔、そしてフェンス越しに記憶を辿るような瞳。
過去を懐かしむ表情のはずなのに、
それは、どうしようもなく“今の彼女”として、俺の胸を打った。
その日から、何かが壊れ始めた。
(もう、踏み込んではいけない)
それは何度も自分に言い聞かせてきた言葉だった。
彼女には婚約者がいる――。
「自分は踏み込めない」
「彼女はすでに、誰かのものだ」
その理屈を、自分のなかで盾のように使っていた。
けれど、あの日の笑顔を見たとき――
その盾が、音を立てて崩れた。
(……ずるいよな)
彼女は何もしていない。
ただ、昔の思い出を話していただけ。
それなのに、俺の心はどうしようもなく揺れていた。
会議室で書類を手渡されたとき、
「今日はありがとうございます」と小さく微笑まれただけで、鼓動が跳ねた。
すれ違いざまに「お疲れさまです」と言われただけで、
その声が、やけに耳に残った。
少しずつ、じわじわと。
彼女の存在が、俺の“日常”に溶け込んでいく。
ただの秘書じゃない。
ただの部下じゃない。
「彼女がいることで、オフィスが静かに整う」と思っていたあの頃とは、もう違う。
今の俺は――
“彼女がそこにいる”ことそのものに、救われていた。
(……もう、戻れないかもしれない)
夜、心春を寝かしつけたあと、ふとリビングの窓の外を見た。
街灯が滲んで見える。
心春が澪のことを「テニスのお姉ちゃん」と呼んで、
まっすぐに駆け寄った日のことを思い出す。
その姿が、彼女の笑顔と重なる。
(……彼女に婚約者なんていなければ)
心の中で、何度目かもわからない呟きがこぼれる。
(彼女が誰のものでもなければ――)
そうだったなら、俺はきっと……
自分から近づいていた。
もっと早く、その手を取っていた。
無表情を装う必要も、言葉を選ぶ必要もなく、
ただ“彼女の隣にいたい”と願っていた。
けれど、今の俺には、それができない。
“既に誰かのものだ”という前提が、心に楔のように刺さっている。
だから、想いだけが宙に浮いたまま。
口にすることも、断ち切ることもできず、
ただ、胸の奥に堆積していく。
(君が誰のものでもなかったなら――)
その想いを抱いたことが、何より苦しかった。
明日もまた、彼女と顔を合わせる。
会議で話し、報告書を受け取り、日常のフリをする。
けれど、本当は――
彼女を見つめるたびに、心が軋んでいる。
想いは止められない。
けれど、想いを向けてはいけない。
その矛盾が、日に日に大きくなっていく。
(婚約者がいなければ、きっと僕は――)
その先の言葉を、俺は心の中だけで、何度も繰り返した。
口に出さずに済むなら、それでいい。
それが理性だ。
それが大人の選択だ。
けれど――
それでも、想いは止まらない。
もう、それだけは、どうしても否定できなかった。
夜風が、ジャケットの裾をかすめていく。
街灯に照らされたアスファルトの道。
会社から最寄駅までの、この帰り道は、いつもより長く感じた。
耳元ではスマートフォンがバイブレーションを鳴らし続けていた。
けれど、誰からの通知なのかすら見ようとせず、ただ歩いた。
心の中に、ずっと繰り返されている言葉がある。
(俺が――君の婚約者だったら)
今日も彼女と、いつも通りのやりとりを交わした。
会議の準備、報告書の確認、業務上の連絡。
言葉にすれば、どれも“仕事の範疇”だ。
けれど、彼女の横顔を見るたびに、俺の心の一部は確実に揺れていた。
笑った顔。
困ったときの眉の動き。
資料を揃える丁寧な手つき。
どれもが、“特別”になっていく。
日に日に、その感覚が濃くなっていくのがわかる。
けれど、それと同じくらい、
「自分は彼女の“誰でもない”存在なのだ」と思い知らされる瞬間も増えていく。
“彼女には婚約者がいる”――。
でも、もう限界だった。
(君の婚約者が、俺だったら)
心の中で、何度も何度も、その“もしも”を繰り返す。
もし、自分が朝の食卓を囲む相手だったら。
もし、自分の横で、コーヒーを淹れる声が聞こえたら。
もし、“行ってきます”を言う相手が自分だったら――
想像するだけで、胸が苦しくなった。
彼女と、もっと当たり前のように笑い合える関係だったなら。
“上司と部下”という立場を越えて、ただ隣にいられる存在だったなら。
(どれだけ幸せだったんだろう)
それは、自分でも気づかないうちに、願いに変わっていた。
叶うことはないと分かっていても、
それでも願ってしまうほどに――彼女が、愛おしくなっていた。
自宅の玄関を開けると、
心春が「おかえりー!」と元気よく飛びついてきた。
「今日はね、学童でお絵かきしたの!パパ見て!これ!」
笑顔で差し出された紙には、丸い顔が三つ並んでいた。
「パパと、ここちゃんと……あのね、“お姉ちゃん”!」
その言葉に、手が止まる。
“お姉ちゃん”――
心春が澪をそう呼ぶのは、彼女の存在が、心春の中でも“特別”になっている。
だからこそ、尚更だった。
彼女を“他人”のままにしておくのが、どこか、辛かった。
(……もし)
(もし、“婚約者”がいないとしたら)
自分は、何を選ぶ?
そう問いかけても、答えはなかった。
でも、ただひとつ――
心の底から、溢れて止まらなかった言葉だけがある。
(俺が君の婚約者だったら、どれだけ幸せだったろう)
口には出せない。
伝えることもできない。
けれど、心の奥底で、何度も何度も繰り返してしまう。
明日もまた、“上司”として、彼女と向き合う。
でも本当は――
“ただの上司”でいたくなんかない。
そう思ってしまった瞬間。
もう、元には戻れなかった。
どうしても、忘れられない。
風に揺れる髪、無防備な横顔、そしてフェンス越しに記憶を辿るような瞳。
過去を懐かしむ表情のはずなのに、
それは、どうしようもなく“今の彼女”として、俺の胸を打った。
その日から、何かが壊れ始めた。
(もう、踏み込んではいけない)
それは何度も自分に言い聞かせてきた言葉だった。
彼女には婚約者がいる――。
「自分は踏み込めない」
「彼女はすでに、誰かのものだ」
その理屈を、自分のなかで盾のように使っていた。
けれど、あの日の笑顔を見たとき――
その盾が、音を立てて崩れた。
(……ずるいよな)
彼女は何もしていない。
ただ、昔の思い出を話していただけ。
それなのに、俺の心はどうしようもなく揺れていた。
会議室で書類を手渡されたとき、
「今日はありがとうございます」と小さく微笑まれただけで、鼓動が跳ねた。
すれ違いざまに「お疲れさまです」と言われただけで、
その声が、やけに耳に残った。
少しずつ、じわじわと。
彼女の存在が、俺の“日常”に溶け込んでいく。
ただの秘書じゃない。
ただの部下じゃない。
「彼女がいることで、オフィスが静かに整う」と思っていたあの頃とは、もう違う。
今の俺は――
“彼女がそこにいる”ことそのものに、救われていた。
(……もう、戻れないかもしれない)
夜、心春を寝かしつけたあと、ふとリビングの窓の外を見た。
街灯が滲んで見える。
心春が澪のことを「テニスのお姉ちゃん」と呼んで、
まっすぐに駆け寄った日のことを思い出す。
その姿が、彼女の笑顔と重なる。
(……彼女に婚約者なんていなければ)
心の中で、何度目かもわからない呟きがこぼれる。
(彼女が誰のものでもなければ――)
そうだったなら、俺はきっと……
自分から近づいていた。
もっと早く、その手を取っていた。
無表情を装う必要も、言葉を選ぶ必要もなく、
ただ“彼女の隣にいたい”と願っていた。
けれど、今の俺には、それができない。
“既に誰かのものだ”という前提が、心に楔のように刺さっている。
だから、想いだけが宙に浮いたまま。
口にすることも、断ち切ることもできず、
ただ、胸の奥に堆積していく。
(君が誰のものでもなかったなら――)
その想いを抱いたことが、何より苦しかった。
明日もまた、彼女と顔を合わせる。
会議で話し、報告書を受け取り、日常のフリをする。
けれど、本当は――
彼女を見つめるたびに、心が軋んでいる。
想いは止められない。
けれど、想いを向けてはいけない。
その矛盾が、日に日に大きくなっていく。
(婚約者がいなければ、きっと僕は――)
その先の言葉を、俺は心の中だけで、何度も繰り返した。
口に出さずに済むなら、それでいい。
それが理性だ。
それが大人の選択だ。
けれど――
それでも、想いは止まらない。
もう、それだけは、どうしても否定できなかった。
夜風が、ジャケットの裾をかすめていく。
街灯に照らされたアスファルトの道。
会社から最寄駅までの、この帰り道は、いつもより長く感じた。
耳元ではスマートフォンがバイブレーションを鳴らし続けていた。
けれど、誰からの通知なのかすら見ようとせず、ただ歩いた。
心の中に、ずっと繰り返されている言葉がある。
(俺が――君の婚約者だったら)
今日も彼女と、いつも通りのやりとりを交わした。
会議の準備、報告書の確認、業務上の連絡。
言葉にすれば、どれも“仕事の範疇”だ。
けれど、彼女の横顔を見るたびに、俺の心の一部は確実に揺れていた。
笑った顔。
困ったときの眉の動き。
資料を揃える丁寧な手つき。
どれもが、“特別”になっていく。
日に日に、その感覚が濃くなっていくのがわかる。
けれど、それと同じくらい、
「自分は彼女の“誰でもない”存在なのだ」と思い知らされる瞬間も増えていく。
“彼女には婚約者がいる”――。
でも、もう限界だった。
(君の婚約者が、俺だったら)
心の中で、何度も何度も、その“もしも”を繰り返す。
もし、自分が朝の食卓を囲む相手だったら。
もし、自分の横で、コーヒーを淹れる声が聞こえたら。
もし、“行ってきます”を言う相手が自分だったら――
想像するだけで、胸が苦しくなった。
彼女と、もっと当たり前のように笑い合える関係だったなら。
“上司と部下”という立場を越えて、ただ隣にいられる存在だったなら。
(どれだけ幸せだったんだろう)
それは、自分でも気づかないうちに、願いに変わっていた。
叶うことはないと分かっていても、
それでも願ってしまうほどに――彼女が、愛おしくなっていた。
自宅の玄関を開けると、
心春が「おかえりー!」と元気よく飛びついてきた。
「今日はね、学童でお絵かきしたの!パパ見て!これ!」
笑顔で差し出された紙には、丸い顔が三つ並んでいた。
「パパと、ここちゃんと……あのね、“お姉ちゃん”!」
その言葉に、手が止まる。
“お姉ちゃん”――
心春が澪をそう呼ぶのは、彼女の存在が、心春の中でも“特別”になっている。
だからこそ、尚更だった。
彼女を“他人”のままにしておくのが、どこか、辛かった。
(……もし)
(もし、“婚約者”がいないとしたら)
自分は、何を選ぶ?
そう問いかけても、答えはなかった。
でも、ただひとつ――
心の底から、溢れて止まらなかった言葉だけがある。
(俺が君の婚約者だったら、どれだけ幸せだったろう)
口には出せない。
伝えることもできない。
けれど、心の奥底で、何度も何度も繰り返してしまう。
明日もまた、“上司”として、彼女と向き合う。
でも本当は――
“ただの上司”でいたくなんかない。
そう思ってしまった瞬間。
もう、元には戻れなかった。



