冷徹専務は、私の“嘘”に甘くなる

その日は、別会社での合同プロジェクトに関する打ち合わせだった。
会場は市内のオフィスビル。外は雲が流れ、すっきりしない春の空。

終わったのは午後四時過ぎ。
特に急ぎの仕事もなかったため、今日は直帰する予定だった。

2人は駅へ向かう途中――彼女の母校の前を通った。

〇〇女子大学。

俺も何度か名前を耳にしたことがある、都内でもそれなりに名の知れた女子大だった。

だが、その敷地の奥に見えたのは、意外にも懐かしい光景だった。

(……テニスコート)

グラウンドの端に設けられたフェンス付きの硬式用コート。
その脇には、並ぶように小さな保育園があった。

彼女が立ち止まり、フェンスの向こうをじっと見つめる。

「ここ、懐かしいな……。たまに来たくなるんです」

そう呟いた声が、風にさらわれて消えそうだった。

俺は黙ってその隣に立ち、視線を同じ方向に向けた。

赤茶けたベンチ。
ほつれたネット。
雨風で色あせたライン。

そして、彼女が静かに語り始めた。

「……大学時代、私はテニス部に所属してて」

「放課後になると、よく練習してたんです。で、ある日から、このフェンスの向こうに、いつも同じ保育園の子が来るようになって」

俺の心臓が、一瞬だけ跳ねた。

澪の目線は、フェンスの向こう――あの保育園に向いていた。

「まだ小さくて、ちょこんと座って、じっと私たちの練習を見てて……」

「で、気づいたら、こっちに向かって『がんばれー!』って、いつも応援してくれてたんです」

「……私、その子にすっごく癒されてて。たぶん、あの頃、大学生活で唯一の癒しだったかもしれません」

彼女の頬に、少しだけ微笑みが戻っていた。

けれど、俺の胸の奥では、静かな衝撃が波紋のように広がっていた。

(あの子のことを……覚えていたのか)

(あの、金網越しの……心春のことを)

記憶の断片が、一気に鮮明になる。

幼い心春が、フェンス越しに笑っていた日々。
その視線の先にいた、ポニーテールの女子大生。

“テニスのお姉ちゃん”と呼ばれていた、あの存在。

俺は、少し離れた場所から、その光景を見守っていた。

自分の中で、何度も思い返した記憶。
けれど、彼女の側にその記憶が“今も残っていた”ことが、信じられなかった。

(あれから、もう何年も経っているのに)

彼女の声には、変わらぬ温度があった。
まるで、昨日のことのように語るその姿に、胸が締めつけられそうになった。

(あのときの“お姉ちゃん”を応援していたのは、俺の姪の心春だったんだよ)

……そう、言いたかった。

けれど、言えなかった。

“黙って見ていた”なんて言ったら、どう思われるか分からない。
記憶の話に、俺の名前が出てこないのも当然だ。

彼女は、ただ目の前の子どもに笑いかけていただけ。
まさか、その光景を、誰かが陰から見ていたとは思ってもいないはずだ。

(言えるわけがない)

あの子のことも、
自分がそれを“覚えている”ことも、
ずっと心のどこかで大切にしまい込んできた記憶。

今さら、語れるものじゃない。

それでも、彼女の口から“あの子”の話が出てきたこと。

その記憶を“忘れずにいた”という事実だけが――
どうしようもなく、胸を打った。

「……その子、急に来なくなっちゃって。たぶん卒園だったのかな」

「最後に何も言えなかったのが、ちょっと寂しくて……」

彼女はそう言って、小さく笑った。

俺は、その笑顔に何も返せなかった。

ただ、心の奥で呟いた。

(心春は……君のこと、ずっと覚えてるよ)

(そして、俺も――)

その想いは、胸の中にそっと沈んでいった。

彼女には、伝えないまま。

今はまだ、ただ黙って隣に立つことしかできなかった。

(君の言っていた“あの子”は、間違いなく――心春だ)

大学のテニスコートの前で、彼女がぽつりと語った思い出。
「フェンス越しに、保育園の子が応援してくれていた」
「ある日、急に来なくなって、寂しかった」と。

その言葉を聞いた瞬間、俺の中で過去の情景が鮮やかに蘇った。

心春は、あの頃毎日のように、「テニスのお姉ちゃん」と呼んでいた。

ベンチに座り、網越しに彼女へ声をかけていた。
跳ねるように「がんばれー!」と叫び、彼女が笑って手を振り返すたび、心春は嬉しそうに飛び跳ねていた。

(それを見ていたのが――俺だった)

姉夫婦が亡くなったばかりの頃で、心春はまだ新しい環境になじめずにいた。
あまり多くを語らず、どこか人との距離を測っているような子だった。

そんな心春が、“毎日会いたい”と思った人。

それが、彼女――高梨澪だった。

俺は何度も、その光景を目にしていた。

けれど、あの頃の自分にとって、その二人のやりとりはまぶしすぎた。
だから、遠くから見守ることしかできなかった。

「……あの子、どうしてるかな」

そう言って、彼女はフェンスの向こうをじっと見つめていた。

俺は、その横顔を見ながら、言いかけた言葉を飲み込んだ。

「君の笑顔に、僕も救われていたんだよ」

本当は、そう言いたかった。

あの頃、心春だけじゃない。
俺自身も、君の笑顔に救われていた。

大学のフェンス越し、部活終わりに汗をぬぐいながら小さな子どもに向けて優しく話す君の姿。
まっすぐで、飾らなくて――あたたかかった。

不意に目にして、ただの通りすがりとして記憶にとどめるには、あまりにも印象が強すぎた。

きっと、俺はあのときから、彼女のことを“覚えていた”のだと思う。

ただの偶然にしては、彼女を“忘れられなかった”理由が多すぎる。

でも。

(……こんなこと、言ったら気持ち悪いって思われるだけだ)

今の俺は、彼女にとって“上司”であり、“専務”であり、何より“距離を保つべき相手”だ。

そんな立場の男が、
「昔、君のことを見ていた」
「心春と話していた君を、眺めていた」――

そんなことを言ったら、彼女はきっと引くだろう。

どんなに正直に話しても、“ずっと前から見てました”なんて言葉は、
時にそれだけで“異質”になってしまう。

彼女が今、その記憶をあたたかく語ってくれたことが嬉しかった。
それを汚すようなことはしたくなかった。

だから俺は、黙っていた。

何も言わず、ただ彼女と並んで、フェンスの向こうを眺めていた。

まるで、何も知らないふりをして。

その帰り道、彼女はふとしたように笑った。

「なんだか、今日って不思議ですね。仕事帰りに大学に寄って、懐かしい話して……」

「……でも、専務とこんなふうに歩くのも、悪くないです」

その言葉が、やけに胸に沁みた。

本当は、もっと何か言いたかった。
“あの頃”と“今”が繋がっていることを、伝えたかった。

けれど、伝える勇気がなかった。

だから――

もう少しだけ、このままでいさせてほしいと、心の中で願った。

“過去”を共有できなくても、
今、こうして隣にいる時間だけは、嘘じゃないから。

(君の笑顔に、救われていたのは、俺の方だった)

言葉にはできないまま、
その想いだけを、静かに胸にしまった。