資料の束が机の上にずしりと積まれていた。
今日だけで三件の会議。
うち二件は社外の取締役を交えた戦略会議。
次から次へと飛び込んでくる確認事項に、メール、承認申請。
いつものことだ。
それでも、目の奥がじんわりと痛むほどの疲労感に、思わず手を止めた。
視線を一度落とし、深く息をつく。
(……あとひと山)
そう思って再び書類に目を向けたとき――
ふと、斜め前方に立つ彼女と、目が合った。
高梨澪。
ホワイトボードの前で資料を確認していた彼女が、こちらに気づいた瞬間。
軽く目を細めて、にこっと笑った。
――その笑顔は、本当に、何の気負いもないものだった。
「お疲れさまです」
唇が、そう動いたのが分かった。
声は届かない距離だった。
けれど、確かにそう言っていた。
たったそれだけ。
なのに、俺は――
目の前の資料を、逆さに閉じた。
「あ……」
ほんの小さな音と共に、ファイルの表紙が裏向きに倒れる。
そして、それを自分がやってしまったことに気づく。
(……なにやってるんだ)
自分でも信じられなかった。
こんなにささいなことで、手が狂うなんて。
慌てて資料を直し、姿勢を正す。
もう一度、彼女のほうを見ようとするが――できなかった。
(……動揺、してる)
自覚した瞬間、胸の奥がじわりと熱くなる。
声をかけられたわけでもない。
触れられたわけでもない。
ただ、目が合って、笑われただけ。
それなのに。
心のどこかが、妙にざわついていた。
以前の自分なら、こんなふうにはならなかった。
“女性として意識しないこと”
“余計な感情を持ち込まないこと”
それが、これまでの自分を守る術だった。
社内で妙な噂を立てられないように。
部下との距離を誤解されないように。
だから、誰に対しても同じ態度を貫いてきた。
けれど、彼女には――
最初から、何かが違った。
無理に意識しないでも、自然に関われる存在だった。
そう思っていた。
けれど今。
目が合っただけで、心が動いている。
たった一瞬の笑顔が、こんなにも胸に残っている。
(……これは)
(本当に、ただの“安心感”なのか?)
口では「彼女には婚約者がいる」と言い聞かせてきた。
だから、自分の気持ちは“線の外”にあると思っていた。
けれど――
(もし、彼女に誰もいなかったら……?)
そう考えてしまった時点で、
もう、自分の心は“線の内側”に入りかけていたのかもしれない。
夕方、会議がひと段落したあと。
彼女が、俺の机にミネラルウォーターを置いた。
「会議、お疲れさまでした。よろしければ、これ……」
その言葉と一緒に添えられた、あの柔らかい微笑み。
ふと見たとき、彼女の頬に、うっすらと疲労の色がにじんでいた。
自分もまた、彼女と同じくらい疲れているはずなのに。
どうしてだろう――その顔を見て、“守りたい”と思ってしまった。
“疲れているんだな”という共感以上に、
“彼女を労わってやりたい”という感情が先に立った。
それは、上司としての思いなのか。
それとも、もっと個人的な感情なのか。
答えはまだ、出ない。
ただ――
彼女の笑顔を“ただの笑顔”として受け流せなくなっていることだけは、確かだった。
今日だけで三件の会議。
うち二件は社外の取締役を交えた戦略会議。
次から次へと飛び込んでくる確認事項に、メール、承認申請。
いつものことだ。
それでも、目の奥がじんわりと痛むほどの疲労感に、思わず手を止めた。
視線を一度落とし、深く息をつく。
(……あとひと山)
そう思って再び書類に目を向けたとき――
ふと、斜め前方に立つ彼女と、目が合った。
高梨澪。
ホワイトボードの前で資料を確認していた彼女が、こちらに気づいた瞬間。
軽く目を細めて、にこっと笑った。
――その笑顔は、本当に、何の気負いもないものだった。
「お疲れさまです」
唇が、そう動いたのが分かった。
声は届かない距離だった。
けれど、確かにそう言っていた。
たったそれだけ。
なのに、俺は――
目の前の資料を、逆さに閉じた。
「あ……」
ほんの小さな音と共に、ファイルの表紙が裏向きに倒れる。
そして、それを自分がやってしまったことに気づく。
(……なにやってるんだ)
自分でも信じられなかった。
こんなにささいなことで、手が狂うなんて。
慌てて資料を直し、姿勢を正す。
もう一度、彼女のほうを見ようとするが――できなかった。
(……動揺、してる)
自覚した瞬間、胸の奥がじわりと熱くなる。
声をかけられたわけでもない。
触れられたわけでもない。
ただ、目が合って、笑われただけ。
それなのに。
心のどこかが、妙にざわついていた。
以前の自分なら、こんなふうにはならなかった。
“女性として意識しないこと”
“余計な感情を持ち込まないこと”
それが、これまでの自分を守る術だった。
社内で妙な噂を立てられないように。
部下との距離を誤解されないように。
だから、誰に対しても同じ態度を貫いてきた。
けれど、彼女には――
最初から、何かが違った。
無理に意識しないでも、自然に関われる存在だった。
そう思っていた。
けれど今。
目が合っただけで、心が動いている。
たった一瞬の笑顔が、こんなにも胸に残っている。
(……これは)
(本当に、ただの“安心感”なのか?)
口では「彼女には婚約者がいる」と言い聞かせてきた。
だから、自分の気持ちは“線の外”にあると思っていた。
けれど――
(もし、彼女に誰もいなかったら……?)
そう考えてしまった時点で、
もう、自分の心は“線の内側”に入りかけていたのかもしれない。
夕方、会議がひと段落したあと。
彼女が、俺の机にミネラルウォーターを置いた。
「会議、お疲れさまでした。よろしければ、これ……」
その言葉と一緒に添えられた、あの柔らかい微笑み。
ふと見たとき、彼女の頬に、うっすらと疲労の色がにじんでいた。
自分もまた、彼女と同じくらい疲れているはずなのに。
どうしてだろう――その顔を見て、“守りたい”と思ってしまった。
“疲れているんだな”という共感以上に、
“彼女を労わってやりたい”という感情が先に立った。
それは、上司としての思いなのか。
それとも、もっと個人的な感情なのか。
答えはまだ、出ない。
ただ――
彼女の笑顔を“ただの笑顔”として受け流せなくなっていることだけは、確かだった。



