冷徹専務は、私の“嘘”に甘くなる

「専務、先週分の報告書の修正版、こちらです」

彼女――高梨澪が差し出したファイルを受け取りながら、俺はほんの少し、目を細めた。

パッと見てすぐ分かる。
項目ごとに色分けされた見出し。
日付と数値の整列。
過去の指摘をふまえて、全体の流れがぐっと見やすくなっている。

(……よく考えたな)

ふと、口をついて出た。

「わかりやすくなったな」

彼女の動きが止まる。

「……えっ」

わずかに見開かれた目。
一瞬、自分の耳を疑ったような表情。

ああ、そうか。
俺がこういう言葉をかけること自体、滅多にないんだったな――と、自分で思って、内心で少しだけ苦笑した。

「ありがとう。助かる」

もう一言、添えたとき、彼女の顔がはっと明るくなった。

「……いえ、あの、ありがとうございます」

小さく頭を下げながら、言葉が少しだけ上ずっていた。

(そんなに驚くことか?)

それでも、その反応に、妙な満足感を覚えてしまった自分がいた。

これまで、女性には極力“必要以上に接しない”よう心がけてきた。

挨拶、業務連絡、指示。
すべてにおいて簡潔に。無機質に。
曖昧な表現や、プライベートに踏み込むような話題は避ける。

――そうしなければ、勘違いを生む。

過去、何度か痛感したことがあった。

“優しくされた”
“目が合った気がする”
“特別扱いされている”

そういった些細な誤解から、妙な空気を生むのは避けたかった。
自分自身の評価より、周囲の視線のほうがよほど厄介だった。

けれど――

(彼女には、なぜかその必要を感じない)

彼女は、媚びない。
気を引こうともしない。
ただ、黙々と自分の仕事をこなし、改善を重ね、日々成長している。

それは決して、誰かに評価されたいからではなく。
きっと、“自分で自分を納得させたい”という意思から来るものだった。

だから、ふとした拍子に、こちらの言葉が柔らかくなっても――
彼女はきっと、それを“好意”とは受け取らない。

(……だから、少し楽なんだろう)

自分でも気づかないうちに、肩の力が抜けていた。

以前なら「お疲れ」とすら言わなかった。

言葉を増やせば、気を持たせる。
曖昧さを残せば、隙になる。
そういう思考が常に先行していた。

けれど今日。

業務を終えたあと、帰り際のエレベーターホールで、彼女が軽く頭を下げた瞬間。

俺は、ごく自然に言った。

「お疲れ」

その声に、彼女がぴたりと止まった。

驚いたようにこちらを見て、でもすぐに、少し照れたような微笑みで「お疲れさまでした」と返してくれた。

その顔が、まっすぐに心に残った。

(……なぜ、こんなにも、気が楽になるんだろうな)

彼女に対して、自分の中にあるものが“恋”なのか、それともただの“安堵”なのか――まだわからない。

ただひとつ言えるのは、彼女と話すときだけは、過剰に構える必要がないということ。

たぶん、彼女が婚約者の存在を公にしているから、というのも理由のひとつだろう。

「相手がいる」と分かっていれば、こちらも安心して接することができる。

お互いに、踏み込まないためのバリアがある。
だから、仕事に集中できるし、素のままでいられる。

(そうだよな)

“恋愛対象にならない人”というのは、時に、もっとも気を許せる存在になるのかもしれない。

そう思って、デスクの上に残った彼女の手書きメモを見つめた。

短い走り書きで、「提出期限 → 月曜午前中!」と大きく囲ってある。

(こういうところも、真面目なんだな)

その几帳面な文字に、ふと口元が緩んだ。

それは、上司としての満足か――
それとも、それ以上の何かか。

まだ答えは出ない。

けれど、少なくとも今日の俺は、
“ただの上司”としての顔を、ほんの少し――崩してしまっていた。