冷徹専務は、私の“嘘”に甘くなる

「……聞きました?高梨さんって、婚約者いるらしいですよ」

給湯室から漏れ聞こえてきた声に、俺は足を止めた。

午後の会議前、資料のチェックを終えて給湯室に向かったときだった。
扉の少し奥で、小さく囁くような声。

話しているのは、たしか秘書課に長年いる女性社員たち。

「えっ、そうなんですか?全然そんなふうに見えなかったけど……」

「なんかこの前、給湯室でポロッと『婚約者が』って言ってたらしいですよ。名前は伏せてたけど」

「それ聞いたらちょっと納得しません?なんか、妙に落ち着いてるし、男っ気なさそうだけど、彼氏がいなさそうにも見えないし」

「たしかに。あの人、専務の担当だからって変に色目使ってる感じないもんねー」

そんなやり取りを聞いて、俺は扉を開けるのをやめた。

そのまま静かに踵を返し、資料を手に再び執務室へと戻った。

(婚約者……?)

意外だった。

というより、少し驚いた。

確かに、彼女が誰かと“付き合っている”可能性について、これまで深く考えたことはなかった。

プライベートな話を自分からするタイプではない。
ランチの時間も一人で過ごすことが多く、同僚と私語を交わしている場面もあまり見かけない。

(でも、そうか……)

そういえば、最近は以前よりもずいぶん落ち着いてきていた。

少し前までは、毎日のように小さなミスに焦って、涙ぐんだような顔を見せていたのに。
今は、自分のペースを持って仕事に向き合っている。

あの“静けさ”の裏に、支えてくれる誰かの存在があったと考えれば、妙に納得がいった。

(だから――余計な誤解もされずに済んでいるんだろう)

若い女性が役員秘書になると、周囲の目はどうしても過敏になる。
「色目を使っている」「気に入られようとしている」などと、根拠のない憶測が飛び交うのも日常茶飯事だ。

けれど彼女は、そのどれにも無縁だった。

あくまでも、誠実に。
あくまでも、まっすぐに。
距離を保ちながら、仕事を全うしていた。

(婚約者がいるなら、当然か)

自然とそう思った。

――それで、いい。

むしろ、いい。

そう思いたかった。

執務デスクに戻り、ファイルを開きながら、自分の中に浮かんだ微かな感情に気づく。

(安心……したのか?)

自分でも少し驚いた。

彼女の存在に、どこかで“気を許してしまいそうになる”自分がいたのは事実だ。

最近、言葉を交わすたびに心がふっと軽くなる瞬間がある。
一緒に仕事をしているときの空気が、以前よりもやわらかく感じられる。
笑顔を見ると、ほっとする。

そんなふうに“特別に感じてしまう”ことが、怖かった。

けれど今なら――

彼女には、きっと、誰かがいる。

だから、俺が踏み込む理由はどこにもない。

(……これでいい)

そう自分に言い聞かせる。

“仕事相手”としての距離感を守る理由ができたことに、少しほっとしていた。

その夜、帰宅して心春を寝かしつけたあと、リビングで一息つく。

窓の外では風が街路樹を揺らしていた。
明日はまた朝から会議づくめだ。

ソファに沈み込んで、スマートフォンの通知を確認していると、ふと彼女の名が目に入った。

高梨澪――

資料の確認依頼と、翌朝のスケジュール報告。

丁寧な文面。
読みやすいフォーマット。
語尾には、少しずつ“彼女らしさ”がにじんできていた。

(……よくやってる)

自然と、そう思う。

だけど、同時に胸の奥に、小さなざらつきが残った。

“彼女には婚約者がいる”――そう思っているのに、なぜか心のどこかがさびしい。

(何を考えているんだ、俺は)

彼女が幸せなら、それでいい。
そのはずなのに。

どこかで、“彼女をもっと知りたい”と思ってしまっていた自分が、確かにいた。

だから今、その扉が閉じられたことに――静かに、寂しさを覚えていた。