冷徹専務は、私の“嘘”に甘くなる

「最近、すごくいい感じです。仕事、前よりずっとスムーズに進むようになってきて……」

思わず口にした言葉だった。

いつもなら、こういう“主観的な感想”は控えるべきだと自制していたのに、今日だけは、どうしても伝えたくなった。

書類を提出して立ち去ろうとした瞬間、私はそう呟いてしまったのだ。

すると、一ノ瀬専務は――

「……そうだな」

小さく笑った。

一瞬だった。

声にこそ出さなかったけれど、その口元がふわりとやわらかくなったのが、はっきりと分かった。

(……笑ってくれた)

それだけで、胸がいっぱいになった。

まるで、小さな光を見つけたように。

まるで、自分の頑張りが報われたように。

(ああ……)

たったそれだけのことで、嬉しくてたまらなかった。

思えば、この数週間で、ずいぶんと状況が変わってきた。

彼と出会ったばかりの頃は、ただひたすらに厳しくて、冷たくて、近づきがたくて――
目を合わせることすら緊張の連続だった。

でも今は。

朝の「おはようございます」にも、きちんと「おはよう」と返ってくる。

資料の提出には短くても「ありがとう」と添えてくれる。

打ち合わせ後に「よくできてた」と言ってもらえることもある。

彼の態度は、依然として無駄がなく、必要以上に感情を表には出さない。

それでも――

そのひとつひとつが、以前とは違っていた。

たとえば、ある日の昼下がり。

打ち合わせのあと、ふと専務の横に並んで廊下を歩くことになった。

数歩、言葉もなく並んで歩く。

ただそれだけのことなのに、私はその時間が妙に心地よく感じていた。

彼は口数は少ないけれど、決して不機嫌そうでもない。

歩調も、私に合わせてくれているような気がした。

(こんなふうに……普通に話せるようになるなんて)

きっと少し前の自分なら、こんな穏やかな時間を手に入れられるなんて、想像もできなかった。

(嬉しいな)

そう思った。

けれど、その瞬間に――心の奥に、冷たいものが差し込んだ。

(でも……嬉しがっちゃいけない)

彼は、家庭のある人。

休日に手をつないで歩いていた、あの少女。

あの子の、笑顔。

「パパ」と呼ばれていた、あの声。

(そんな人に……こんな気持ち、抱いちゃいけない)

そう思えば思うほど、胸がぎゅっと痛んだ。

同時に、どんどん好きになってしまっていた。

どんなに隠そうとしても、心がもうごまかせなかった。

彼の話す言葉に耳を傾けたくて。
彼の喜ぶ顔を、もっと見たくて。
彼のために仕事をがんばって、少しでも力になりたくて。

そのすべてが――“好き”という気持ちに起因していた。

でも。

(そんなの、ダメだ)

彼には家庭がある。

私は“婚約者がいる”ことになっている。

ふたりの間には、越えてはいけない線が何本もある。

それなのに、日々近づいていく“心の距離”だけが、私の理性を振り切っていく。

(こんな気持ち、誰にも言えない)

でも、言えないからこそ、苦しくなる。

「高梨さん、今日のデータ入力、助かりました」

ふいに声をかけられたのは、残業時間に入る直前だった。

一ノ瀬専務が、そっとこちらを見ながら、控えめにそう言った。

「いえ、そんな……当然のことをしただけです」

そう答えながらも、心の中では涙がにじみそうになっていた。

(優しい)

ただ、それだけ。

それだけの言葉なのに、どうしてこんなに心が動いてしまうんだろう。

「……何かあった?」

唐突にそう訊かれて、私は慌てて首を横に振った。

「いえ……ただ、疲れているだけです。すみません」

笑顔を作りながらそう言うと、専務はそれ以上何も言わず、「無理するなよ」とだけ言って、去っていった。

その背中を見送りながら――私は、自分の心の中の重さに、ただ耐えるしかなかった。

(あの人の優しさが、いちばん……つらい)

夜、帰宅してスーツを脱いで、深く息を吐いた。

ようやく一人になって、気持ちをほどくことができる。

けれど、心の中は今日もまた、いっぱいだった。

好きになってはいけない人を好きになった。
それが、こんなにもつらいなんて思わなかった。

届かないと分かっているのに。
越えられないと分かっているのに。

それでも、気づけば目で追ってしまう。

声を聞くだけで、嬉しくなる。

少し笑ってくれただけで、泣きたくなるほど嬉しくなる。

(……どうして)

(どうして、こんなに“届かない人”に、惹かれてしまったんだろう)

その問いに答えはなくて。

ただ、そっと、胸の奥で呟くだけだった。