冷徹専務は、私の“嘘”に甘くなる

会議準備の時間というのは、どうしてこうも落ち着かないのだろう。
時間に余裕を持って行動しているつもりでも、直前になればなるほど、細かい確認や忘れものの心配に追われて、頭も心もそわそわしてくる。

この日も例に漏れず、私は大きな資料を抱えて会議室を出たり入ったりしていた。

プロジェクターの接続確認、議事録フォーマットの再印刷、予備資料のクリップ留め、席次表の配置――

一つでも漏れがあれば、全部が台無しになる。
そんな緊張感に背中を押されながら、私は資料棚へと向かっていた。

ふと、何かを取りに戻ろうと振り返った瞬間。

目が合った。

会議室のガラス越しに、一ノ瀬専務がいた。
彼も同じように、机の上の書類に目を落としていたはずだったのに、なぜかこちらを見ていた。

(……え?)

目が、確かに合っていた。

それはほんの一瞬だったのに、時間が止まったように感じた。

反射的に、私は――にこっと、笑ってしまった。

(しまった……!)

笑顔なんて、業務中に。
しかも専務相手に。
しかも、こんなタイミングで――!

自分でも驚くほど自然な笑みがこぼれてしまったことに、後から気づいた。

でも、それ以上に驚いたのは――

一ノ瀬専務の反応だった。

手元の書類を、彼が閉じようとした――けれど、向きを間違えた。
それに気づいた彼は、すぐにそれを正したが、その指先がどこかぎこちなくて、そしてその瞬間、彼は少しだけ目をそらした。

(……え?)

(今……動揺、してた?)

思わず、胸の奥でざわめきが広がる。

(私の笑顔に、反応した……?)

考えすぎかもしれない。
たまたま見つめ合ってしまっただけかもしれない。
でも、あのわずかな“閉じ間違え”は、今まで一度も見たことがなかった。

彼はいつも冷静で、正確で、無駄がない。

それなのに。

まるで――目を奪われていたかのような、手の動きだった。

(まさか……)

(そんなはず、ないよね)

思考の隅で、自分の中の“期待”が暴れ出す。
でも、それと同時に、現実が重くのしかかる。

(だって、私は“婚約者がいる”ことになってる)

社内の誰もが、私に“相手がいる”と思っている。
それが前提の立ち位置で、私は一ノ瀬専務の秘書としてここにいる。

それに――

(専務には、子どもがいる)

大学近くで偶然見かけた、あの女の子。
笑顔で「パパ」と呼んだ、あの無垢な声。

あの子が、専務の“家族”のすべてを物語っていた。

(だから、勘違いなんてしちゃいけない)

彼が私を見ていたのも。
書類を閉じ間違えたのも。
目をそらしたのも。

すべて、偶然――そう思わなければいけない。

でも。

(……嬉しかった)

それでも、私は――

ほんの一瞬、恋愛対象として見てもらえたような気がして。

誰にも言えないけれど、心の中ではずっと、その瞬間がリフレインしていた。

目が合ったこと。
笑ったこと。
彼が動揺した“ように見えた”こと。

そして、そのあと彼が何も言わずに書類を整理し直して、淡々と会議を始めたこと。

(何でもないふりをしていたけれど――)

(もしかしたら、少しだけ……同じように感じてくれてたのかもしれない)

期待と、現実と、感情のはざまで心が揺れた。

「婚約者がいる」「子どもがいる」

そういう“前提”を何重にも積み上げて、ようやく落ち着いた場所だったのに。
その土台が、今、小さく軋みはじめていた。

帰り道。スマートフォンを開いて、ふと今日のスケジュールを見返す。

「15:00 役員会議」

それだけの記録。
でも、その横に手書きで小さく“資料・向きミス”とメモしてあった。

あの瞬間、彼が間違えたこと。
それが、私の中では“記憶に残したい”出来事になってしまっていた。

それがどんなにくだらないことでも。
意味がないとわかっていても。
私にとっては、“彼が動揺した唯一の瞬間”だった。

(また明日、顔を合わせる)

それが楽しみで、怖かった。

(今度は……私は、どんな顔をすればいいの)

(また、笑ってしまったら――)

心のどこかで、またあの瞬間を期待してしまっている自分がいる。

夜。

鏡の前で髪をとかしながら、自分の目元が、ほんの少し緩んでいることに気づいた。

「ああ……嬉しかったんだ、やっぱり」

無意識に口からこぼれた言葉。

(好きになっちゃ、ダメなのに)

ずっとそう思ってきた。

でも、そう思えば思うほど、嬉しさは増していく。

どうして、こんなに嬉しかったんだろう。

それが、ただの勘違いだったとしても。
たった一瞬の交差だったとしても。

私の心は、確かに揺れた。

そして――もう、止まらないところまで来てしまっていた。