冷徹専務は、私の“嘘”に甘くなる

「今日は、午後からのプレゼン……不安なら、一度説明してみるか?」

昼前、会議室のホワイトボードをチェックしていたとき、ふと背後から声がした。

振り向けば、そこには一ノ瀬専務の姿。

「え……あ、はい」

私は慌てて資料を持ち直しながら、彼の顔をまともに見られなかった。

「……でも、大丈夫です。準備は万端なので」

そう返すと、専務はふっと目を細めて、ほんの少しだけ頷いた。

「そうか。じゃあ、任せたよ」

いつもよりもわずかに柔らかい声音。

その一言が、まるでご褒美のように胸に落ちた。

(……頼られてる)

その言葉に甘えてしまいそうになる。

(この人の隣に、いたい)

そう思ってしまった自分がいた。

“頼りたい”でもなく、“褒められたい”でもなく、“支えてあげたい”でもない。

ただ、あの人のそばにいたい。
疲れているときに、そっと肩を貸してあげたい。
それくらいの、何でもない関係になりたくて――

(でも、それは……)

その瞬間、胸に鋭い痛みが走った。

思い出してしまった。

あの子のことを。

夕暮れ時の歩道橋。
大学のフェンス越しに見えた小さな背中。

「パパ!」と笑いながら手を振る、あの声。

ふわりと揺れるツインテール。
お揃いのリュック。
無邪気な笑顔。

あの子の存在が、一ノ瀬専務の「父親としての顔」を確かに証明していた。

私は、その光景を、確かに見てしまった。

(あの子のいる場所が、あの人の帰る場所)

(あの子の笑顔が、あの人の一番の癒し)

(私は……そこには、いられない)

目を閉じる。

呼吸を整える。

(そうだよ、私はただの“秘書”)

(この人の隣にいられるのは、業務の中だけ)

そう何度も心の中で繰り返した。

けれど、どうしてだろう。

言えば言うほど、逆に感情があふれそうになる。

午後の会議。
プロジェクトの進行管理を補佐する立場として、資料を一ノ瀬専務に代わって説明することになっていた。

「以上が今月分の進捗と課題です。次回のレビューまでに、調整項目の洗い出しを進めてまいります」

きちんと話せた。
声も震えなかった。

同席した他部署の課長からも「わかりやすかった」と言われ、内心で小さくガッツポーズを取った。

(よかった……無事に終わった)

そのとき、隣にいた専務が小さく言った。

「……堂々としてたな。助かった」

それだけの言葉。

けれど私は、一瞬心臓が止まりそうになった。

声を聞いた瞬間――“寄りかかりたい”と思ってしまった。

終わったあと、彼の前で、ただ静かに肩を落としたい。
「頑張りましたね」と言ってもらいたい。
そのまま、あたたかい声の中で、今日一日の疲れを流したかった。

(だめ……だめ)

(それは……仕事じゃない)

私は、自分にそう言い聞かせた。

夕方、コピー機の前。

紙が出てくる音を聞きながら、私はぼんやりと宙を見ていた。

(家庭がある人を、好きになるなんて)

(自分がこんなにも愚かだなんて、思ってもみなかった)

彼のことを知れば知るほど、好きになってしまう。

彼の声を聞くたびに、心があたたかくなる。

でも、そんな気持ちの先にあるのは、誰かの居場所を奪うことかもしれない。

(あの子の笑顔を壊してしまうかもしれない)

(そんなこと、絶対にしたくない)

私は、あの人の幸せを壊したくて好きになったわけじゃない。

ただ、惹かれてしまった。

ただ、目を逸らせなかった。

でも、それだけでは許されない。

だから私は、決めた。

(私は、秘書という役割を全うする)

この想いは、表に出さない。

誰にも知られないまま、静かに、心の奥にしまっておく。

そして――彼にとって、“やりやすい秘書”でいることだけを、考えよう。

夜。

帰宅して、化粧を落として、髪をほどいても――鏡に映る自分の目は、どこか泣き出しそうだった。

寄りかかりたかった。
頼られたかった。
あの優しさに包まれたかった。

でも、私はそれを選ばなかった。

選んではいけなかった。

(この気持ちを、なかったことにはできない)

けれど――

(せめて、誰の迷惑にもならないように)

それが、私にできる、最後の“誠実”だった。