氷上のキセキ Vol.1 ~リンクに咲かせるふたりの桜~【書籍化】

「結、早めのお昼食べながら、ペアの勉強しようぜ」

ある日曜日。
早朝練習を終えると、一般客で賑わい始めたリンクから上がり、私と晶はミーティングルームでペアのルールや技を覚えることにした。

ランチバッグから取り出したサラダとヨーグルトとフルーツをテーブルに並べる私に、晶は心配そうに聞いてくる。

「結、毎食そんなんで大丈夫か?」
「うん、平気。家では鶏のササミとかもちゃんと食べてるよ」
「そっか。ごめん、俺がもっと筋力つけたら、結のこと軽くリフトできるんだけど……」
「そんなことないよ。私、今までずっとこういう食事だもん。そう言えばね、一度だけ晴也先生にコンビニスイーツもらって食べたことあるんだ。すんごく美味しくてびっくりしたの。でも身体が食べ慣れてないから、そのあと胸焼けして気持ち悪くなっちゃった。だから私はそういうの食べられない、色んな意味で。あはは!」

軽く笑い飛ばしたつもりが、晶は怪訝そうな顔をする。

「晴也先生、なんで結にコンビニスイーツなんか渡したんだ?」
「あー、それはまあ……。なんとかして私が元気になるように、かな?」
「……それ、いつのこと?」
「えっと、去年の6月」

すると晶は、うつむいて押し黙った。

「晶? どうかした?」
「うん……。俺、結が元気ない時にそばにいてやれなかったんだなと思って。晴也先生がコンビニスイーツ渡すなんて、よほどのことだったんだろ? 結、なにがあったんだ?」
「え、それは、その……」

晶がいなくなったからに決まってるのに、当の本人は想像もしていないのだろうか?
もしかして晶は、自分がいなくなっても私は変わらずスケートに専念してたと思ってる?

私が答えあぐねていると、晶は「ごめん」と視線を落とした。

「言いたくないことだってあるよな。それに結が大変な時に、俺はそばにいてやれなかったんだ。あれこれ聞く資格もない」

そこまで言うと顔を上げ、晶は真っ直ぐに私を見つめた。

「だけど、結。これからはどんなことでも相談してほしい。少しでも力になりたいから」

真剣な晶の表情に、私は思わず言葉を失う。
そして考えるよりも先に口を開いた。

「それなら晶、約束して。もう二度と、黙って私の前からいなくならないって」
「え……?」
「私、スケート滑れなくなった。学校にも行けなくなった。布団から出られなくて、毎日泣いてた」
「まさか、それって……」
「晶がいなくなった日からだよ」

晶は、信じられないとばかりに、大きく目を見開く。

「そんな、俺のせいで……?」
「晶のせいじゃないよ。あの時、一番つらくて一番大変だったのは晶だもん。でもね、晶。私にとって晶は、それほど大きな存在だったんだよ。私だけじゃない、晴也先生も真紀先生も、館長も他のレッスン生も。みんな晶を心配してた。晶の悩みに気づけなかったことを、後悔した。だから晶も私に約束して。これからはどんなことでも相談してほしい。少しでも力になりたいから」
「結……」

晶の目が涙で潤む。

「ごめん。ごめんな、結」

私も涙が込み上げてきた。

「ううん、私こそ。いつも晶に助けてもらってたのに、晶の悩みに気づけなくてごめんね」
「いや、黙っていなくなった俺が悪かったんだ。だけど、スケートのみんなには言いたくなかった。リンクは自分の中で、一番幸せな場所だったから。笑顔が詰まった場所だったから、そのままの思い出として取っておきたかったんだ」

その気持ちは私にもよくわかる。
きっと晶は、二度とここには戻れないと覚悟して、新海アイスアリーナをあとにしたのだろう。

「スケートから離れても、平気だと思ってたんだ。あの時は楽しかったなって、過去の思い出になったと思ってた。このままひっそり、誰も知らない土地で暮らしていくんだって、自分を納得させてた。だけど結の全日本を観て、魂を揺さぶられた。もう言葉なんてなにも思い浮かばなかった。心にダイレクトに届いたんだ、結の真っ直ぐな想いが」
「晶……」
「結の笑顔と、あのきれいな桜の木が脳裏に蘇って離れなくて……。戻りたい、あの場所へ。俺はあそこでしか自分らしく生きられない、そう思った。心の底から、生きる力が湧き上がってくるのを感じたんだ」

私は涙をこらえながら、晶の言葉を噛みしめる。

「ありがとう、結。俺に幸せを思い出させてくれて。あの結のスケートがあったから、俺は今ここにいられる」
「ううん、私こそ。晴也先生から、晶が大変な状況にいたことを聞かされて、気持ちを入れ替えたの。私はなにを甘ったれてたんだ、これからは強くならなきゃって。もしいつかまた会えるなら、胸を張って晶に会えるように。もう二度と会えないのなら、せめてスケートで晶に私の想いを伝えたい。晴也先生に、全日本に出場すれば晶もテレビで観るかもしれないって言われて、それに賭けたの」
「結、まさか……、俺のために?」
「晶のためだけじゃない。私と晶、ふたりのために」
「結……」

気がつくと、私は晶の胸にギュッと抱きしめられていた。

「ありがとう。ほんとにごめんな、結。約束する、もう二度と結の前からいなくならない。スケートも絶対にやめない。俺の人生はこの先もずっと、結とスケートとともにある」
「うん、私も。晶のそばでいつまでも滑っていたい。私が私らしく生きていくために」
「ああ、俺もだ」

どうしてだろう?
練習では何度もふたりで身体を寄せ合っているのに、今こうして抱きしめられると胸がキュンと切なく痛む。
晶の腕の中で感じる温かさ、優しさ、幸せと喜び。

胸が震えて涙があふれる。
ずっとずっと、この時を忘れない。
私の心の中に、宝物としてこの気持ちを閉じ込めておこう。
いつまでも、ずっと……