杏果はピアノの蓋を閉じ、そっと椅子から立ち上がった。
弾き終えたばかりの《愛の夢》の旋律が、まだ指先にうっすらと残っている。
カウンターでは、仁美が帳簿を開いたまま、軽く背伸びをしていた。
「……気持ちよく、弾けた?」
「……はい。まだ手が覚えてて、ちょっと驚きました」
「忘れないものよ。音も、指も、気持ちも。ときどき拗ねるけどね」
杏果が照れたように笑ったそのとき――
店のドアのチャイムが小さく鳴った。
振り向くと、そこには飛弦がいた。
ラフなTシャツにジャケットを羽織り、片手には紙袋のようなもの。
演奏の時間ではないこの時間帯に、彼が現れるのは意外だった。
「あれ。開いてたんすね。忘れ物、取りに来ただけで……」
途中で言葉が止まる。
視線が、杏果とピアノとを、ゆっくり交互に見た。
杏果はとっさに一歩下がり、
「すみません、勝手に……」と小さな声で言った。
飛弦は首を振る。
「……いや。そのピアノは、僕のものではないから」
二人の間に、静かな沈黙が落ちた。
仁美は空気を読むように、「コーヒー淹れるわね」と言って、奥に引っ込んでいった。
静かになった店内。
杏果は、さっきまでとは違う意味で、心臓がトクンと鳴るのを感じた。
飛弦はゆっくりとピアノの横に歩み寄り、譜面に目を落とす。
そして、鍵盤の蓋を軽く撫でるように、指先でなぞった。
「……《愛の夢》だよね?」
杏果は、小さく頷いた。
「この曲、好きなんだよね。もちろん、原曲もだけど……
ジャズにしてみたら、思ったよりちゃんと“歌”になった」
それが、バーで彼が弾いた、あのアレンジだったと――
杏果は理解した。
「短大の発表会で、弾いたんです。すごく緊張して……それが最後でした。
でも、あなたの演奏を聴いたら、また弾きたくなって」
飛弦は一瞬、何かを言いかけて、けれど口を閉じた。
視線をピアノに落としたまま、かすかに笑う。
「偶然、だったんだね」
「はい。でも……嬉しかったです」
再び、沈黙。
けれどその静けさは、どこか心地よかった。
まるで音の余韻が、ふたりの間にまだ漂っているようだった。
飛弦がピアノの足元から、青いドキュメントフォルダを拾い上げる。
「これ、譜面。置き忘れてた」
「……中、見た?」
杏果はそっと首を横に振った。
「見てません。……でも、見てもいいですか?」
飛弦は少し驚いたように杏果を見て、
そして、ゆっくりとうなずいた。
「……うん。いいよ」
「たくさん入ってますね」
「リクエストに対応するための譜面、実際に使うことはあまりないけど、お守りのようなものかな」
弾き終えたばかりの《愛の夢》の旋律が、まだ指先にうっすらと残っている。
カウンターでは、仁美が帳簿を開いたまま、軽く背伸びをしていた。
「……気持ちよく、弾けた?」
「……はい。まだ手が覚えてて、ちょっと驚きました」
「忘れないものよ。音も、指も、気持ちも。ときどき拗ねるけどね」
杏果が照れたように笑ったそのとき――
店のドアのチャイムが小さく鳴った。
振り向くと、そこには飛弦がいた。
ラフなTシャツにジャケットを羽織り、片手には紙袋のようなもの。
演奏の時間ではないこの時間帯に、彼が現れるのは意外だった。
「あれ。開いてたんすね。忘れ物、取りに来ただけで……」
途中で言葉が止まる。
視線が、杏果とピアノとを、ゆっくり交互に見た。
杏果はとっさに一歩下がり、
「すみません、勝手に……」と小さな声で言った。
飛弦は首を振る。
「……いや。そのピアノは、僕のものではないから」
二人の間に、静かな沈黙が落ちた。
仁美は空気を読むように、「コーヒー淹れるわね」と言って、奥に引っ込んでいった。
静かになった店内。
杏果は、さっきまでとは違う意味で、心臓がトクンと鳴るのを感じた。
飛弦はゆっくりとピアノの横に歩み寄り、譜面に目を落とす。
そして、鍵盤の蓋を軽く撫でるように、指先でなぞった。
「……《愛の夢》だよね?」
杏果は、小さく頷いた。
「この曲、好きなんだよね。もちろん、原曲もだけど……
ジャズにしてみたら、思ったよりちゃんと“歌”になった」
それが、バーで彼が弾いた、あのアレンジだったと――
杏果は理解した。
「短大の発表会で、弾いたんです。すごく緊張して……それが最後でした。
でも、あなたの演奏を聴いたら、また弾きたくなって」
飛弦は一瞬、何かを言いかけて、けれど口を閉じた。
視線をピアノに落としたまま、かすかに笑う。
「偶然、だったんだね」
「はい。でも……嬉しかったです」
再び、沈黙。
けれどその静けさは、どこか心地よかった。
まるで音の余韻が、ふたりの間にまだ漂っているようだった。
飛弦がピアノの足元から、青いドキュメントフォルダを拾い上げる。
「これ、譜面。置き忘れてた」
「……中、見た?」
杏果はそっと首を横に振った。
「見てません。……でも、見てもいいですか?」
飛弦は少し驚いたように杏果を見て、
そして、ゆっくりとうなずいた。
「……うん。いいよ」
「たくさん入ってますね」
「リクエストに対応するための譜面、実際に使うことはあまりないけど、お守りのようなものかな」



