次の週の月曜。「キャリコ」の定休日。
朝食を済ませた杏果は、クローゼットの奥にしまっていた譜面を取り出し、鞄にそっと詰めた。
向かったのは、夜とは違う顔を見せるビルの一角――ベルベットコード。
昼前の街は静かで、ビルの入り口にも人気はなかった。
エレベーターに乗り、5階のボタンを押す。
扉が開くと、店の前のシャッターは半分だけ開いていた。
ドアは閉まっている。そっとチャイムを鳴らすと、少しして中からドアが開き、仁美が顔をのぞかせた。
「おはよう。……って言っても、バーに“おはよう”は似合わないわね」
「おはようございます」
杏果は小さく笑って、ぺこりと会釈した。
シャッターをくぐると、店内は照明が落とされていて、外から差し込む自然光がやわらかく床を照らしていた。
夜とはまるで違って、同じ場所とは思えないほどだった。
「飲み物、要る?」
仁美はカウンターの奥でノートパソコンを開きながら、さらりと尋ねる。
「いえ……今日は、ピアノを弾ければ」
「どうぞ。好きに弾いてあげて。あの子、暇してるから」
杏果はゆっくりとステージに向かい、グランドピアノの前に立った。
静かに蓋を開け、鍵盤と向き合う。
最初は、スケールから。
手の位置、形、指の感覚――ひとつひとつを確かめながら、音階をなぞる。
最初はぎこちない動きだったが、少しずつ指が記憶を取り戻していくのがわかった。
仁美はカウンターで帳簿を整理しながら、何も言わずにその音を受け止めていた。
その沈黙が、不思議と杏果には心地よかった。
譜面を取り出し、譜面台にセットする。
《愛の夢》第3番。かつての“最後の曲”。
鍵盤に指を置く。
音が、ひとつ、またひとつと流れ出す。
覚えていた。けれど、途中で何度かミスタッチもあった。
それでも、止めずに最後まで弾ききった。
最後の和音が店内に溶け、やがて静かに消えていく。
杏果はふうっと深く息を吐き、そっと指を鍵盤から離した。
しばらくの沈黙。
「……ただいま、って感じだった?」
カウンターの奥から、仁美のやわらかな声が届く。
杏果は少し照れたように笑って、顔を上げた。
「……はい、そんな感じです」
その言葉のあとも、しばらく店内は静かだった。
けれど杏果の胸の内では、音がまだ、ゆっくりと響いていた。
朝食を済ませた杏果は、クローゼットの奥にしまっていた譜面を取り出し、鞄にそっと詰めた。
向かったのは、夜とは違う顔を見せるビルの一角――ベルベットコード。
昼前の街は静かで、ビルの入り口にも人気はなかった。
エレベーターに乗り、5階のボタンを押す。
扉が開くと、店の前のシャッターは半分だけ開いていた。
ドアは閉まっている。そっとチャイムを鳴らすと、少しして中からドアが開き、仁美が顔をのぞかせた。
「おはよう。……って言っても、バーに“おはよう”は似合わないわね」
「おはようございます」
杏果は小さく笑って、ぺこりと会釈した。
シャッターをくぐると、店内は照明が落とされていて、外から差し込む自然光がやわらかく床を照らしていた。
夜とはまるで違って、同じ場所とは思えないほどだった。
「飲み物、要る?」
仁美はカウンターの奥でノートパソコンを開きながら、さらりと尋ねる。
「いえ……今日は、ピアノを弾ければ」
「どうぞ。好きに弾いてあげて。あの子、暇してるから」
杏果はゆっくりとステージに向かい、グランドピアノの前に立った。
静かに蓋を開け、鍵盤と向き合う。
最初は、スケールから。
手の位置、形、指の感覚――ひとつひとつを確かめながら、音階をなぞる。
最初はぎこちない動きだったが、少しずつ指が記憶を取り戻していくのがわかった。
仁美はカウンターで帳簿を整理しながら、何も言わずにその音を受け止めていた。
その沈黙が、不思議と杏果には心地よかった。
譜面を取り出し、譜面台にセットする。
《愛の夢》第3番。かつての“最後の曲”。
鍵盤に指を置く。
音が、ひとつ、またひとつと流れ出す。
覚えていた。けれど、途中で何度かミスタッチもあった。
それでも、止めずに最後まで弾ききった。
最後の和音が店内に溶け、やがて静かに消えていく。
杏果はふうっと深く息を吐き、そっと指を鍵盤から離した。
しばらくの沈黙。
「……ただいま、って感じだった?」
カウンターの奥から、仁美のやわらかな声が届く。
杏果は少し照れたように笑って、顔を上げた。
「……はい、そんな感じです」
その言葉のあとも、しばらく店内は静かだった。
けれど杏果の胸の内では、音がまだ、ゆっくりと響いていた。



