その日の早番が終わる頃には、陽はすでに傾きかけていた。
杏果は制服の上にカーディガンを羽織り、店の裏口からそっと外に出た。
夕暮れの風が肌をなぞり、空はやわらかなオレンジとグレーが混じり合っている。
歩き出した足が自然と向かったのは、昨日訪れたあのビル。
エントランスにある看板の「Velvet Chord」の文字が、夕陽に鈍く光っていた。
エレベーターで5階へ。
まだ営業前の時間帯だったが、店の中から微かに音がしている。
シャッターが半分閉まっているが、ドアは開いているようだった。
扉をそっと押すと、かすかにチャイムが鳴った。
シャッターをくぐるようにして店内に入る。
「あら、いらっしゃい」
店内にいたのは、仁美だった。
グラスを磨いていた手を止めて、杏果に目を向ける。
照明はまだ落とされていて、店の中は半分、影に沈んでいた。
「……あの、少しだけ。ピアノ、触ってもいいですか?」
仁美はわずかに目を細めてから、ゆっくりと頷き、ステージの照明をつけた。
「いいわよ。ちょうど調律明けで、音がきれいに響くわ」
杏果は小さく会釈して、ステージに向かう。
誰もいない、静かな店内。ピアノの黒い蓋が閉じられている。
そっと蓋を開け、鍵盤の上に指を置く。
冷たくもなく、暖かくもない、ちょうどいい手触り。
Cの音をひとつだけ弾いた。
ポン――
静けさの中に、音が落ちた。
杏果は目を閉じ、しばらくその余韻に耳を澄ませた。
右手で、ゆっくりと《愛の夢》第3番の冒頭をなぞる。
思っていたよりも指は動いた。
けれど、それはあくまで記憶の輪郭をなぞるような、かすかな音だった。
1分にも満たない短いフレーズを弾き終えると、杏果は指を止めた。
音が消える。
「……うん」
自分にだけ聞こえる声で、杏果は小さく呟いた。
——まだ、弾ける。
後ろから近づく足音。仁美がそっと声をかけた。
「最初の一音って、不思議よね。出しただけで、何かが動き出す」
杏果は顔を上げて、微笑んだ。
言葉にはできなかったけれど、その通りだと思った。
「今日はこのくらいにしておくわ。月曜日……うち、定休日なんです。また来てもいいですか?」
「もちろん」
仁美の声は、それだけだった。
けれどその一言が、杏果の背中を静かに、けれど確かに押してくれた。
ステージを降り、杏果はピアノを振り返る。
その白と黒の艶やかな鍵盤に、さっきの自分の音がまだ残っているような気がした。
杏果は制服の上にカーディガンを羽織り、店の裏口からそっと外に出た。
夕暮れの風が肌をなぞり、空はやわらかなオレンジとグレーが混じり合っている。
歩き出した足が自然と向かったのは、昨日訪れたあのビル。
エントランスにある看板の「Velvet Chord」の文字が、夕陽に鈍く光っていた。
エレベーターで5階へ。
まだ営業前の時間帯だったが、店の中から微かに音がしている。
シャッターが半分閉まっているが、ドアは開いているようだった。
扉をそっと押すと、かすかにチャイムが鳴った。
シャッターをくぐるようにして店内に入る。
「あら、いらっしゃい」
店内にいたのは、仁美だった。
グラスを磨いていた手を止めて、杏果に目を向ける。
照明はまだ落とされていて、店の中は半分、影に沈んでいた。
「……あの、少しだけ。ピアノ、触ってもいいですか?」
仁美はわずかに目を細めてから、ゆっくりと頷き、ステージの照明をつけた。
「いいわよ。ちょうど調律明けで、音がきれいに響くわ」
杏果は小さく会釈して、ステージに向かう。
誰もいない、静かな店内。ピアノの黒い蓋が閉じられている。
そっと蓋を開け、鍵盤の上に指を置く。
冷たくもなく、暖かくもない、ちょうどいい手触り。
Cの音をひとつだけ弾いた。
ポン――
静けさの中に、音が落ちた。
杏果は目を閉じ、しばらくその余韻に耳を澄ませた。
右手で、ゆっくりと《愛の夢》第3番の冒頭をなぞる。
思っていたよりも指は動いた。
けれど、それはあくまで記憶の輪郭をなぞるような、かすかな音だった。
1分にも満たない短いフレーズを弾き終えると、杏果は指を止めた。
音が消える。
「……うん」
自分にだけ聞こえる声で、杏果は小さく呟いた。
——まだ、弾ける。
後ろから近づく足音。仁美がそっと声をかけた。
「最初の一音って、不思議よね。出しただけで、何かが動き出す」
杏果は顔を上げて、微笑んだ。
言葉にはできなかったけれど、その通りだと思った。
「今日はこのくらいにしておくわ。月曜日……うち、定休日なんです。また来てもいいですか?」
「もちろん」
仁美の声は、それだけだった。
けれどその一言が、杏果の背中を静かに、けれど確かに押してくれた。
ステージを降り、杏果はピアノを振り返る。
その白と黒の艶やかな鍵盤に、さっきの自分の音がまだ残っているような気がした。