演奏が終わっても、ピアノの余韻は、店内の空気の中にほのかに漂っていた。
グラスが触れ合う音、交わされる小さなささやき。
それらに混じって、杏果の中ではまだ、《愛の夢》の旋律が小さく鳴り続けていた。
ステージのピアノには、もう誰もいない。
飛弦はカウンターの奥、薄暗い隅に腰掛け、グラスの水を静かに口にしていた。
演奏していたときとはまるで別人のような、緊張が解けた横顔だった。
◇◇
「……楽しんでもらえた? いい音だったでしょ」
ふいにかけられた声に、杏果は小さく肩を跳ねさせた。
振り向くと、水瀬仁美が立っていた。
淡い照明が、彼女の横顔を柔らかく照らしている。
「はい……すごく、素敵でした」
そう答えた自分の声が、思ったよりもかすれていたことに気づく。
胸の奥で言葉にならない何かが、波のように押し寄せてきていた。
けれど、それをうまく言葉にする術を持っていなかった。
仁美は、微笑を浮かべた。
「あなた、ピアノ弾いていたでしょ?」
その一言が、杏果の胸の奥に、すっと入り込んだ。
「……なんで、わかるんですか」
「わかるわよ。演奏を“聴いていた”だけじゃない。“見ていた”。
あの目は、鍵盤の前に座っていた人の目。私にも、覚えがあるのよ」
杏果はしばらく黙ったまま、そっと視線をグラスへと落とす。
それは、ほんの少し前まで手の中にあったもの。
でも今は、それをどう持てばいいかも、わからなくなっていた。
けれど、不思議だった。
仁美の声も、言葉も、責めるようでも、励ますようでもなかった。
ただ、その静かなまなざしに、杏果は“わかってもらえた”という感覚を覚えた。
「……音楽の短大に通ってました。ピアノ専攻で。昔は……ピアニストになりたかったんです」
杏果の声は、ごく小さかった。
それでも、仁美は黙って耳を傾けてくれていた。
「卒業発表で、この曲を弾いたんです。《愛の夢》。あのときは、あれが最後になるなんて思ってなくて……。でも、それっきり、もう弾けなくなって」
グラスの氷が、カランと静かに音を立てた。
店内の奥から、客の笑い声が微かに聞こえる。
仁美は手を止め、杏果の方にゆっくりと目を向けた。
そのまなざしには、驚きも慰めもなかった。ただ、静かな理解だけがあった。
「終わったと思ってたことが、ふとしたきっかけで、また始まることってあるわよ」
それは、断言でも助言でもなく、この店の空気のような言葉だった。
杏果はその言葉を、胸の奥にそっとしまい込むように、うなずいた。
仁美はカウンターに戻りながら、振り返りもせず、ふわりと続けた。
「また、弾いてみたくなったら、ここにおいで。あの子、昼は暇してるから」
杏果は、思わず小さく笑った。
自分でも気づかないうちに、張りつめていたものがほどけていた。
立ち上がり、会釈をしてから店を出る。
ビルの階段を下りながら、まだ胸の奥では、《愛の夢》の旋律が静かに続いていた。
夜風が少しひんやりと頬を撫でる。
けれど、不思議と、寒さは感じなかった。
グラスが触れ合う音、交わされる小さなささやき。
それらに混じって、杏果の中ではまだ、《愛の夢》の旋律が小さく鳴り続けていた。
ステージのピアノには、もう誰もいない。
飛弦はカウンターの奥、薄暗い隅に腰掛け、グラスの水を静かに口にしていた。
演奏していたときとはまるで別人のような、緊張が解けた横顔だった。
◇◇
「……楽しんでもらえた? いい音だったでしょ」
ふいにかけられた声に、杏果は小さく肩を跳ねさせた。
振り向くと、水瀬仁美が立っていた。
淡い照明が、彼女の横顔を柔らかく照らしている。
「はい……すごく、素敵でした」
そう答えた自分の声が、思ったよりもかすれていたことに気づく。
胸の奥で言葉にならない何かが、波のように押し寄せてきていた。
けれど、それをうまく言葉にする術を持っていなかった。
仁美は、微笑を浮かべた。
「あなた、ピアノ弾いていたでしょ?」
その一言が、杏果の胸の奥に、すっと入り込んだ。
「……なんで、わかるんですか」
「わかるわよ。演奏を“聴いていた”だけじゃない。“見ていた”。
あの目は、鍵盤の前に座っていた人の目。私にも、覚えがあるのよ」
杏果はしばらく黙ったまま、そっと視線をグラスへと落とす。
それは、ほんの少し前まで手の中にあったもの。
でも今は、それをどう持てばいいかも、わからなくなっていた。
けれど、不思議だった。
仁美の声も、言葉も、責めるようでも、励ますようでもなかった。
ただ、その静かなまなざしに、杏果は“わかってもらえた”という感覚を覚えた。
「……音楽の短大に通ってました。ピアノ専攻で。昔は……ピアニストになりたかったんです」
杏果の声は、ごく小さかった。
それでも、仁美は黙って耳を傾けてくれていた。
「卒業発表で、この曲を弾いたんです。《愛の夢》。あのときは、あれが最後になるなんて思ってなくて……。でも、それっきり、もう弾けなくなって」
グラスの氷が、カランと静かに音を立てた。
店内の奥から、客の笑い声が微かに聞こえる。
仁美は手を止め、杏果の方にゆっくりと目を向けた。
そのまなざしには、驚きも慰めもなかった。ただ、静かな理解だけがあった。
「終わったと思ってたことが、ふとしたきっかけで、また始まることってあるわよ」
それは、断言でも助言でもなく、この店の空気のような言葉だった。
杏果はその言葉を、胸の奥にそっとしまい込むように、うなずいた。
仁美はカウンターに戻りながら、振り返りもせず、ふわりと続けた。
「また、弾いてみたくなったら、ここにおいで。あの子、昼は暇してるから」
杏果は、思わず小さく笑った。
自分でも気づかないうちに、張りつめていたものがほどけていた。
立ち上がり、会釈をしてから店を出る。
ビルの階段を下りながら、まだ胸の奥では、《愛の夢》の旋律が静かに続いていた。
夜風が少しひんやりと頬を撫でる。
けれど、不思議と、寒さは感じなかった。