店内がふっと静まり、照明がわずかに落ちる。
ステージを照らすスポットライトだけが、柔らかな光を残した。
桜井飛弦が、黒く艶のあるグランドピアノの前に腰を下ろす。
姿勢は自然で、流れるような所作だった。
指先が鍵盤に触れる。その瞬間、空気がひとつ震えた。
最初の曲は、ジャズスタンダード「Misty」。
左手が、そっとコードを落とす。
それはまるで、グラスに注がれるウイスキーのように滑らかで、温かい。
右手の甘いメロディに、左手が寄り添うようにコードを重ねていくと、語るように音が流れ出す。
店内のグラスの音も、会話も、自然と控えめになっていく。
誰もが、“聴く”という行為に、すこしずつ心を傾けていく。
「俺のリクエストだよ」
斜め後ろの席から、常連らしき中年男性の声が聞こえた。話し方が、少し誇らしげだ。
連れの女性に、話しているらしい。
杏果は思わず微笑んだ。
お酒と一緒に、自分の好きな曲を味わう――そんな贅沢な夜もあるのかと、少しだけ羨ましく思う。
1曲目が終わると、ほんの短い間を置いて、すぐに次の曲が始まる。
今度は、軽快な変拍子の「Take Five」。
ピアノがリズムを刻み出すと、カウンターの男性客が、自然にスウィングしながら指を鳴らす。
杏果は、ピアノに向かう飛弦の背中を静かに見つめた。
最初は張っていた気持ちが、音楽に溶けるようにほどけていくのを感じる。
この店の空気にも、音楽にも、そして彼にも。
3曲目、4曲目。
古い映画音楽。そして、誰もが知るJ-POPのバラードをジャズアレンジで。
けれど、それらはどれも、彼の指先を通ることで、知らない景色のような音に生まれ変わっていた。
そして、5曲目。
イントロがなく、静かに右手だけのアルペジオを伴った旋律が始まる。
——この曲。
短大の卒業発表会で、杏果が弾いた曲だった。
練習を重ねて、指に何度も馴染ませた旋律。
けれど本番では、舞台に立った途端に手が震えた。
観客の視線も、照明の熱も、すべてが重くのしかかってきた、あの夜。
その記憶が、フラッシュバックした。
リスト作曲、《愛の夢》第3番。
クラシックの中でも、特に美しく繊細な曲。
飛弦の演奏は、それをジャズに変えていた。
リズムはわずかに緩やかで、テンションコードが加えられている。
原曲のロマンティックさを残しながら、夜の街の色をまとわせたような――
繊細でいて、大胆なアレンジだった。
杏果は、気づかないうちにグラスを置いていた。
両手を膝の上に重ね、まるでお辞儀をするように、音に身を預けていた。
音が、静かに消えていく。
残響がピアノの響板から離れていくその瞬間、杏果の胸の奥に、なにか柔らかなものが残った。
——なぜ、この曲を?
——彼は、私がこれを弾いていたことを知らないはずなのに。
飛弦は何事もなかったかのように、次の曲へと指を進めていく。
あくまで自然に、いつもの流れで。
けれど杏果の胸には、たしかにひとつの思いが芽生えていた。
——もう一度、弾いてみたい。
あの曲の続きを、自分の手で。
ステージを照らすスポットライトだけが、柔らかな光を残した。
桜井飛弦が、黒く艶のあるグランドピアノの前に腰を下ろす。
姿勢は自然で、流れるような所作だった。
指先が鍵盤に触れる。その瞬間、空気がひとつ震えた。
最初の曲は、ジャズスタンダード「Misty」。
左手が、そっとコードを落とす。
それはまるで、グラスに注がれるウイスキーのように滑らかで、温かい。
右手の甘いメロディに、左手が寄り添うようにコードを重ねていくと、語るように音が流れ出す。
店内のグラスの音も、会話も、自然と控えめになっていく。
誰もが、“聴く”という行為に、すこしずつ心を傾けていく。
「俺のリクエストだよ」
斜め後ろの席から、常連らしき中年男性の声が聞こえた。話し方が、少し誇らしげだ。
連れの女性に、話しているらしい。
杏果は思わず微笑んだ。
お酒と一緒に、自分の好きな曲を味わう――そんな贅沢な夜もあるのかと、少しだけ羨ましく思う。
1曲目が終わると、ほんの短い間を置いて、すぐに次の曲が始まる。
今度は、軽快な変拍子の「Take Five」。
ピアノがリズムを刻み出すと、カウンターの男性客が、自然にスウィングしながら指を鳴らす。
杏果は、ピアノに向かう飛弦の背中を静かに見つめた。
最初は張っていた気持ちが、音楽に溶けるようにほどけていくのを感じる。
この店の空気にも、音楽にも、そして彼にも。
3曲目、4曲目。
古い映画音楽。そして、誰もが知るJ-POPのバラードをジャズアレンジで。
けれど、それらはどれも、彼の指先を通ることで、知らない景色のような音に生まれ変わっていた。
そして、5曲目。
イントロがなく、静かに右手だけのアルペジオを伴った旋律が始まる。
——この曲。
短大の卒業発表会で、杏果が弾いた曲だった。
練習を重ねて、指に何度も馴染ませた旋律。
けれど本番では、舞台に立った途端に手が震えた。
観客の視線も、照明の熱も、すべてが重くのしかかってきた、あの夜。
その記憶が、フラッシュバックした。
リスト作曲、《愛の夢》第3番。
クラシックの中でも、特に美しく繊細な曲。
飛弦の演奏は、それをジャズに変えていた。
リズムはわずかに緩やかで、テンションコードが加えられている。
原曲のロマンティックさを残しながら、夜の街の色をまとわせたような――
繊細でいて、大胆なアレンジだった。
杏果は、気づかないうちにグラスを置いていた。
両手を膝の上に重ね、まるでお辞儀をするように、音に身を預けていた。
音が、静かに消えていく。
残響がピアノの響板から離れていくその瞬間、杏果の胸の奥に、なにか柔らかなものが残った。
——なぜ、この曲を?
——彼は、私がこれを弾いていたことを知らないはずなのに。
飛弦は何事もなかったかのように、次の曲へと指を進めていく。
あくまで自然に、いつもの流れで。
けれど杏果の胸には、たしかにひとつの思いが芽生えていた。
——もう一度、弾いてみたい。
あの曲の続きを、自分の手で。