金曜の夜。

 杏果はスマホで飛弦の演奏予定を確認し、意を決して「ベルベットコード」に向かうことにした。
 普段より少しだけ丁寧にメイクをし、髪を整える。
 鏡の前に立ち、静かに深呼吸をひとつ。
 心臓が、普段よりも少し早く打っているのがわかった。

 駅から歩いて数分。
 ビルのエントランスに並ぶテナント看板の中に、深いダークグリーンの背景に金色の文字が浮かぶ。
 ──Velvet Chord。
 その名前が、夜の街の静けさにしっとりと溶け込んでいるように見えた。

 エレベーターで5階へ。
 開いた先に現れたのは、ガラス製のドア。その中央に、看板と同じロゴが控えめに輝いている。
 ドアの前で一瞬、足が止まる。
 手を伸ばしかけて、引っ込めた。
 ──やっぱり、場違いだったかもしれない。

 そう思ったそのとき、不意にドアが内側から開いた。 

「いらっしゃい。初めてかしら?」

 立っていたのは、黒髪の女性だった。
 ゆるく波打つ髪に、深い青紫のドレス。
 まるで夜を身にまとったような、静かな気品があった。

「えっと……はい。あの、ピアノを聴きたくて……」

 杏果の言葉に、女性はゆるく微笑んだ。

「じゃあ、楽しんでいって。ホームページで確認してきたのね?」 

 店内は、落ち着いた明かりに包まれていた。
 木目のカウンター、数席のテーブル。奥には小さなステージとグランドピアノ。
 グラスの触れ合う音と、静かに流れるBGMが、空気のすき間をやさしく埋めている。

 杏果は隅の席にそっと腰を下ろし、呼吸を整えた。
 なんだか、自分がとても小さくなったような気がした。

 やがて、さきほどの女性がカウンターの奥から近づいてくる。

「飲める?」

「あ、あんまり強くないです……」

「じゃあ、ノンアルのカクテルにしましょう。名前は?」

「七瀬……杏果です」

「私は水瀬仁美。ここの店主。お客様には名前で呼ばれてるわ。“ミストレス”って呼ばれることもあるけど、それだと、ちょっと気取ってるでしょ?」

 そう言って、仁美は柔らかく笑った。
 その笑みに、杏果の緊張もすこしずつ溶けていくのがわかった。

 ノンアルのカクテルが運ばれてきて、ほんの一口だけ飲んだ、そのとき――
 店内のざわめきが、ふっと静まった。

 ピアノの前に、一人の男が歩み出る。
 アッシュグレーの短髪。
 長身で、シャープなシルエット。
 その横顔に、見間違えようのない気配が宿っていた。

 桜井飛弦――

 グラスを持つ手に、思わず力が入った。
 こんなにも、誰かの音を待っていたことがあっただろうか。