帰宅後、杏果は部屋着に着替え、軽く夕食を済ませると、スマホを手にベッドに腰掛けた。
 ふと、夕方の出来事が脳裏によみがえる。
 駅前で見た、あの青年。
 鋭さと優しさを併せ持ったような目。そして、指先から零れ落ちていくようなピアノの音。

 動画サイトを開き、
「桜井飛弦、ピアノ……」
 検索窓にその名前を打ち込むと、いくつかの関連動画が表示された。

 再生ボタンを押すと、画面に飛弦の横顔が映った。
 下を向き、鍵盤に集中している姿。その指が動き出すと、スマホの小さなスピーカーから、柔らかい和音と、遊ぶような装飾。原曲を知っていても、まるで初めて聴くような気がした。
 動画の説明欄には、「週に数回、“ベルベットコード”で演奏中」と記されていた。

 ベルベットコード……?
 調べてみると、駅の反対側、ビルの5階にあるピアノバーの名前だった。

 ──夜のバーか……。

 杏果はお酒も弱いし、夜の街にはあまり縁がない。
 けれど、その映像の中の彼は、音楽とともに呼吸をしていた。
 その音の中に、杏果は今も何かを感じている。

「……少しくらい、覗いてみてもいいよね」

 自分に言い訳するように呟いて、スマホを置いた。