金曜日の夜。
ベルベットコードのステージは、いつもと変わらぬ静けさの中にあった。
杏果は、ドビュッシーの《夢》を弾き終えたばかりだった。
店内には拍手が優しく広がり、彼女はピアノの前で静かに一礼した。
カウンターには、いつもとは少し雰囲気の違う女性客がひとりいた。
落ち着いたスーツに身を包み、演奏中もずっと手帳のようなものを膝に乗せていたのが印象的だった。
その女性が、ステージの合間に仁美に話しかける。
仁美はうんうんと頷き、何度かちらりと杏果たちの方を見やった。
演奏がすべて終わったあと、仁美がふたりのもとにやってきた。
「ねえ、杏果ちゃん、飛弦くん。ちょっと話があるの」
手帳を閉じた女性が、軽く頭を下げた。
「株式会社ボタニークで広報をしております、真壁と申します。
実は、先日動画サイトでおふたりの連弾の動画を拝見しまして……」
杏果は、思わず飛弦の顔を見る。
彼は少し肩をすくめたように笑って、「あれ、意外と伸びてるみたいで」と小声で答えた。
真壁は続ける。
「来月、弊社の新製品発表会が横浜でありまして。
その後の懇親会のBGMとして、もしよろしければ、おふたりに演奏をお願いできないかと思いまして」
「芸能プロダクションみたいな話ね」
と、仁美が笑う。
「でも、二人なら、静かな華やぎを添えられると思ったのよ。どうかしら?」
杏果と飛弦は、一瞬目を合わせた。
「……やってみたいです」
杏果の声は、少し緊張していたけれど、はっきりしていた。
◇◇
イベント当日。
横浜港を見下ろすガラス張りの高層ビル。その一角にあるBotanique社のホールは、
白と淡いミントグリーンを基調とした、自然光の似合う空間だった。
新商品は、オーガニック素材を使用したスキンケアシリーズ。
テーマは「自然の力で、透明感あふれる素肌へ」。
広報担当者が商品説明を行った後、新商品の魅力をアピールするCM映像が流された。
杏果と飛弦は、参加者からの質問に製品開発者が答えるのを聴きながら、控室で発表会の終わるのを待っていた。
懇親会は立食形式で、ワインやカナッペを片手に、ゲストや社員たちが談笑していた。
ふたりは、ステージ脇のグランドピアノで、交代で静かに演奏を続けていた。
杏果は、フォーレの《パヴァーヌ》とシューマンの《子どもの情景》から数曲。
飛弦は、バラード調のスタンダードナンバーを、柔らかい音で届けていく。
会が終わる頃、真壁がふたりに歩み寄ってきた。
「……本当にありがとうございました。まさに、“空間に香りが広がる”ような音でした」
「“あの場に花が咲いたみたい”って、社長が言ってたんですよ」
杏果は、思わず顔をほころばせた。
◇◇
懇親会が終わり、飛弦とふたり、最上階の展望フロアに上がった。
目の前には、紺色の海と灯りの点滅。
大きな船が、ゆっくりと湾内を滑っていくのが見える。
杏果は、しばらく何も言わず、その景色に見とれていた。
そして、ぽつりと口を開く。
「……ねえ。
私、あなたと出会ったことに、ちょっと……運命的なものを感じてるの」
飛弦は、すぐには返事をしなかった。
でも、ゆっくりと彼女の隣に立ち、そっと肩に手を回した。
「僕もだよ」
夜の港が、窓の向こうに静かに広がっていた。
灯りの粒が、水面を撫でるように揺れている。
杏果はその光を見つめながら、そっと目を閉じた。
耳に残るのは、初めてふたりで奏でたボサノヴァの余韻。
やわらかく、でも確かに心を撫でるその音楽が、まだ胸の奥に残っている。
“この人と出会って、私はまた、ピアノを好きになれた”
やさしく回された腕のあたたかさに、杏果は静かに身を預けた。
<END>
ベルベットコードのステージは、いつもと変わらぬ静けさの中にあった。
杏果は、ドビュッシーの《夢》を弾き終えたばかりだった。
店内には拍手が優しく広がり、彼女はピアノの前で静かに一礼した。
カウンターには、いつもとは少し雰囲気の違う女性客がひとりいた。
落ち着いたスーツに身を包み、演奏中もずっと手帳のようなものを膝に乗せていたのが印象的だった。
その女性が、ステージの合間に仁美に話しかける。
仁美はうんうんと頷き、何度かちらりと杏果たちの方を見やった。
演奏がすべて終わったあと、仁美がふたりのもとにやってきた。
「ねえ、杏果ちゃん、飛弦くん。ちょっと話があるの」
手帳を閉じた女性が、軽く頭を下げた。
「株式会社ボタニークで広報をしております、真壁と申します。
実は、先日動画サイトでおふたりの連弾の動画を拝見しまして……」
杏果は、思わず飛弦の顔を見る。
彼は少し肩をすくめたように笑って、「あれ、意外と伸びてるみたいで」と小声で答えた。
真壁は続ける。
「来月、弊社の新製品発表会が横浜でありまして。
その後の懇親会のBGMとして、もしよろしければ、おふたりに演奏をお願いできないかと思いまして」
「芸能プロダクションみたいな話ね」
と、仁美が笑う。
「でも、二人なら、静かな華やぎを添えられると思ったのよ。どうかしら?」
杏果と飛弦は、一瞬目を合わせた。
「……やってみたいです」
杏果の声は、少し緊張していたけれど、はっきりしていた。
◇◇
イベント当日。
横浜港を見下ろすガラス張りの高層ビル。その一角にあるBotanique社のホールは、
白と淡いミントグリーンを基調とした、自然光の似合う空間だった。
新商品は、オーガニック素材を使用したスキンケアシリーズ。
テーマは「自然の力で、透明感あふれる素肌へ」。
広報担当者が商品説明を行った後、新商品の魅力をアピールするCM映像が流された。
杏果と飛弦は、参加者からの質問に製品開発者が答えるのを聴きながら、控室で発表会の終わるのを待っていた。
懇親会は立食形式で、ワインやカナッペを片手に、ゲストや社員たちが談笑していた。
ふたりは、ステージ脇のグランドピアノで、交代で静かに演奏を続けていた。
杏果は、フォーレの《パヴァーヌ》とシューマンの《子どもの情景》から数曲。
飛弦は、バラード調のスタンダードナンバーを、柔らかい音で届けていく。
会が終わる頃、真壁がふたりに歩み寄ってきた。
「……本当にありがとうございました。まさに、“空間に香りが広がる”ような音でした」
「“あの場に花が咲いたみたい”って、社長が言ってたんですよ」
杏果は、思わず顔をほころばせた。
◇◇
懇親会が終わり、飛弦とふたり、最上階の展望フロアに上がった。
目の前には、紺色の海と灯りの点滅。
大きな船が、ゆっくりと湾内を滑っていくのが見える。
杏果は、しばらく何も言わず、その景色に見とれていた。
そして、ぽつりと口を開く。
「……ねえ。
私、あなたと出会ったことに、ちょっと……運命的なものを感じてるの」
飛弦は、すぐには返事をしなかった。
でも、ゆっくりと彼女の隣に立ち、そっと肩に手を回した。
「僕もだよ」
夜の港が、窓の向こうに静かに広がっていた。
灯りの粒が、水面を撫でるように揺れている。
杏果はその光を見つめながら、そっと目を閉じた。
耳に残るのは、初めてふたりで奏でたボサノヴァの余韻。
やわらかく、でも確かに心を撫でるその音楽が、まだ胸の奥に残っている。
“この人と出会って、私はまた、ピアノを好きになれた”
やさしく回された腕のあたたかさに、杏果は静かに身を預けた。
<END>



