夕方の駅前広場は、いつもより静かだった。
杏果は「キャリコ」を出て、改札へ向かう歩道橋をゆっくり歩いていた。
改札前のコンコースに置かれたストリートピアノ。
何人かが近くを通り過ぎていくが、誰もピアノに触れてはいない。
ふと、杏果は立ち止まり、ピアノを見つめた。
——今日は、誰も弾いてない。
風が頬をなでる。
杏果は、気づけばピアノの前に腰を下ろしていた。
鍵盤に、そっと指を置く。
今日は、譜面は持っていない。でも、手が覚えている。
リスト《愛の夢》第3番。
かつて、震える手で弾いたあの旋律が、今、駅構内に響く。
ひとつ、ひとつ、音を置くように。
人の話し声、子どもの笑い声、駅のアナウンス、それらの音がどこか遠くなるように感じた。
最後の和音を響かせたとき、後ろから拍手が聞こえた。
振り返ると、アッシュグレーの髪が風に揺れていた。
飛弦だった。
少し離れた場所に立ち、コートのポケットに手を突っ込んだまま、微笑んでいた。
「聴いてたの?」
「うん。たまたま通ったら……ちょうど始まったから」
杏果は、恥ずかしそうにうつむいた。
「あなたも、弾く?」
「ううん。……ねえ、連弾してみない?」
杏果は目を丸くした。
「……ここで?」
「ねえ、《イパネマの娘》、知ってる?」
杏果は一瞬考え、頷いた。
「知ってる。……ボサノヴァ、だよね」
「そう。
やってみる? 連弾。君が旋律、俺がコードで入る」
「ここで?」
「ここだからいいんじゃない? それに……動画、撮ってもいい?」
杏果はちょっとだけ躊躇したが、すぐに微笑んだ。
「うん。……やってみようか」
飛弦がスマートフォンをスタンドに立て、録画モードにする。
杏果はベンチに腰かけ直し、隣に飛弦が座ると、少しだけ肩が触れた。
杏果の右手が、軽やかな旋律を運び出すと、飛弦のコードが柔らかく追いかけた。
大きく揺れないボサノヴァのリズム。
風のように流れる音に、いつの間にか何人かが足を止めていた。
ふたりはアイコンタクトを交わし、途中でそっとパートを交代する。
それもごく自然に——まるで音に導かれるように。
最後のコードを重ねたとき、広場には拍手が静かに湧き上がった。
杏果が顔を上げると、飛弦が手を差し出してきた。
「……いい音だった」
「うん。……すごく、気持ちよかった」
杏果もそっと、右手を伸ばして、それを握った。
その手は、少しだけ冷たかった。
◇◇
落ち着いたカフェに入り、ふたりは窓際のカウンター席に並んで座った。
ホットチョコレートとコーヒー。湯気の向こうに、ゆるやかな沈黙。
「……なんか、不思議だね。
昔だったら、外でピアノ弾くなんて、考えられなかった」
「俺も。誰かと連弾するなんて、人生で初めてかも」
ふたりは笑う。
しばらく沈黙が続いたあと、杏果が小さく切り出した。
「……桜井さん、会社辞めたって、言ってたよね」
「うん。両親の期待もあって、いちおう就職はしたんだけどさ。
飲み会とか、“空気読むのが大事”みたいな文化が合わなくて。
……自分らしくいられる時間の方が、大事だって思っちゃった」
「わかる気がする……。そういうの、苦手」
飛弦は少し笑って、カップの縁に指をかけた。
「大学では軽音サークルでジャズバンドやってたんだ。
ピアノ担当。ライブもいくつか出てて、けっこう楽しかった。
でも卒業したら、みんな辞めちゃってさ。
残ったのは俺だけだった」
杏果は驚いたように目を見開いた。
「そうなんだ……。桜井さんの演奏、ずっと続けてる人の音だなって思ってた」
彼は照れたように小さく肩をすくめた。
「君は?」
「私は……子どものころから、ずっとクラシックを習ってたの。
短大もピアノ専攻。でも、家はそんなに余裕があるわけじゃなかったし……
ピアノで食べていける自信もなかった」
杏果は少しだけ息を吐き、カップに視線を落とした。
「就職も考えたけど、どこにもピンとこなくて。
それで、今の喫茶店に……、そこでずっと働いてる。
音楽から離れてたけど、あなたと会って、またピアノに触れるようになったの。
……感謝してる」
飛弦は、驚いたように一瞬視線を動かしてから、ゆっくり言った。
「……それは、俺も嬉しいよ」
杏果は、うなずいた。
「あのときの《愛の夢》、私の中の“ピアノ”を思い出させてくれた」
沈黙。
でも、そこには心地よい温度があった。
飛弦は、少し間を置いてから、話を戻すように言った。
「動画配信でね、今はそこそこ稼げてる。
でも、安定してるわけじゃないし……。
ベルベットコードでは、週に3回、演奏させてもらってる」
「……ずっと?」
「うん。あの店がなかったら、俺もたぶん音楽、続けられてなかったと思う。
仁美さんには、ほんとに感謝してる」
杏果は、そっと頷いた。
「……私、今まで誰かとこんなふうに、ピアノのことを話す機会、なかったかもしれない」
「そう? ……なんか、意外」
窓の外には、ゆっくりと夜が降りてきていた。
ふたりはそれを見つめながら、言葉を探すように黙った。
言葉がなくても、十分だった。
窓の外の街並みを見ながら、並んで座る今の距離感が、ちょうどよかった。
杏果は「キャリコ」を出て、改札へ向かう歩道橋をゆっくり歩いていた。
改札前のコンコースに置かれたストリートピアノ。
何人かが近くを通り過ぎていくが、誰もピアノに触れてはいない。
ふと、杏果は立ち止まり、ピアノを見つめた。
——今日は、誰も弾いてない。
風が頬をなでる。
杏果は、気づけばピアノの前に腰を下ろしていた。
鍵盤に、そっと指を置く。
今日は、譜面は持っていない。でも、手が覚えている。
リスト《愛の夢》第3番。
かつて、震える手で弾いたあの旋律が、今、駅構内に響く。
ひとつ、ひとつ、音を置くように。
人の話し声、子どもの笑い声、駅のアナウンス、それらの音がどこか遠くなるように感じた。
最後の和音を響かせたとき、後ろから拍手が聞こえた。
振り返ると、アッシュグレーの髪が風に揺れていた。
飛弦だった。
少し離れた場所に立ち、コートのポケットに手を突っ込んだまま、微笑んでいた。
「聴いてたの?」
「うん。たまたま通ったら……ちょうど始まったから」
杏果は、恥ずかしそうにうつむいた。
「あなたも、弾く?」
「ううん。……ねえ、連弾してみない?」
杏果は目を丸くした。
「……ここで?」
「ねえ、《イパネマの娘》、知ってる?」
杏果は一瞬考え、頷いた。
「知ってる。……ボサノヴァ、だよね」
「そう。
やってみる? 連弾。君が旋律、俺がコードで入る」
「ここで?」
「ここだからいいんじゃない? それに……動画、撮ってもいい?」
杏果はちょっとだけ躊躇したが、すぐに微笑んだ。
「うん。……やってみようか」
飛弦がスマートフォンをスタンドに立て、録画モードにする。
杏果はベンチに腰かけ直し、隣に飛弦が座ると、少しだけ肩が触れた。
杏果の右手が、軽やかな旋律を運び出すと、飛弦のコードが柔らかく追いかけた。
大きく揺れないボサノヴァのリズム。
風のように流れる音に、いつの間にか何人かが足を止めていた。
ふたりはアイコンタクトを交わし、途中でそっとパートを交代する。
それもごく自然に——まるで音に導かれるように。
最後のコードを重ねたとき、広場には拍手が静かに湧き上がった。
杏果が顔を上げると、飛弦が手を差し出してきた。
「……いい音だった」
「うん。……すごく、気持ちよかった」
杏果もそっと、右手を伸ばして、それを握った。
その手は、少しだけ冷たかった。
◇◇
落ち着いたカフェに入り、ふたりは窓際のカウンター席に並んで座った。
ホットチョコレートとコーヒー。湯気の向こうに、ゆるやかな沈黙。
「……なんか、不思議だね。
昔だったら、外でピアノ弾くなんて、考えられなかった」
「俺も。誰かと連弾するなんて、人生で初めてかも」
ふたりは笑う。
しばらく沈黙が続いたあと、杏果が小さく切り出した。
「……桜井さん、会社辞めたって、言ってたよね」
「うん。両親の期待もあって、いちおう就職はしたんだけどさ。
飲み会とか、“空気読むのが大事”みたいな文化が合わなくて。
……自分らしくいられる時間の方が、大事だって思っちゃった」
「わかる気がする……。そういうの、苦手」
飛弦は少し笑って、カップの縁に指をかけた。
「大学では軽音サークルでジャズバンドやってたんだ。
ピアノ担当。ライブもいくつか出てて、けっこう楽しかった。
でも卒業したら、みんな辞めちゃってさ。
残ったのは俺だけだった」
杏果は驚いたように目を見開いた。
「そうなんだ……。桜井さんの演奏、ずっと続けてる人の音だなって思ってた」
彼は照れたように小さく肩をすくめた。
「君は?」
「私は……子どものころから、ずっとクラシックを習ってたの。
短大もピアノ専攻。でも、家はそんなに余裕があるわけじゃなかったし……
ピアノで食べていける自信もなかった」
杏果は少しだけ息を吐き、カップに視線を落とした。
「就職も考えたけど、どこにもピンとこなくて。
それで、今の喫茶店に……、そこでずっと働いてる。
音楽から離れてたけど、あなたと会って、またピアノに触れるようになったの。
……感謝してる」
飛弦は、驚いたように一瞬視線を動かしてから、ゆっくり言った。
「……それは、俺も嬉しいよ」
杏果は、うなずいた。
「あのときの《愛の夢》、私の中の“ピアノ”を思い出させてくれた」
沈黙。
でも、そこには心地よい温度があった。
飛弦は、少し間を置いてから、話を戻すように言った。
「動画配信でね、今はそこそこ稼げてる。
でも、安定してるわけじゃないし……。
ベルベットコードでは、週に3回、演奏させてもらってる」
「……ずっと?」
「うん。あの店がなかったら、俺もたぶん音楽、続けられてなかったと思う。
仁美さんには、ほんとに感謝してる」
杏果は、そっと頷いた。
「……私、今まで誰かとこんなふうに、ピアノのことを話す機会、なかったかもしれない」
「そう? ……なんか、意外」
窓の外には、ゆっくりと夜が降りてきていた。
ふたりはそれを見つめながら、言葉を探すように黙った。
言葉がなくても、十分だった。
窓の外の街並みを見ながら、並んで座る今の距離感が、ちょうどよかった。



